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「道」を極める

 「道」を極める~という本筋に戻ります。 ページを繰ると、約1年前に 「里程標石」 探索の記事を書いています。 今は、この2か月ほどは、それに集中していました。
 近々正式のレポートをまとめるので、その前にここでネタをばらしてしまうのは止めます。 が、抽象的な表現で 「寸止め」 公表してしまうなら、井原市域で既に文献として公表されているものを含む6基の実物と、1基の伝承を再発見 (再度収録)することができました。

 旧井原市では、東西に旧山陽道が横切ります。 併合された、旧・芳井町を含めた新井原市では、南北に東城往来が走ります。 その各々に、「標石」 のグループが存在します。 前者は押しも押されもしない、有史以来の国道級です。 後者は中国山地の背骨の街・東城と瀬戸内を結び、下世話にいうと、北向きに塩/南向きに酒が運ばれました。 北から鉄が運ばれてきたことは言うに及びません。 ご一新の世になっても、各々の道の重要性は変わりませんでした。(今では、相対的に地位が低くなりましたけれど)

井原13里6_4

   ここで、写真で示すのは、東城往来にある岡山から十三里の標石です。
   旧山陽道を西に進んで、今でいう井原市街に入る地点:七日市辺りで
   北に進んで間もないところにあります。
   写っている面は本来右面で文字は冗談で墨書されており、道に直面し
   た側が碑表で 距岡山元標十三里 と刻まれています。
   明治面した面にあります。 年季はありません。

 これらの標石は明治20年前後に県下に広く建てられました。 人類は古今・東西で同じことを繰り返してきましたが、「道」 は統治の骨格で動脈です。 時あたかも、我が国が 「富国」 と 「強兵」 に邁進した時期です。 往時の公的記録 (岡山縣布達類:県レベルの官報) を読み解くと、市町村間の旅程をあらかじめ知っておくことが、徴兵に直結した大事であることが判ります。 「徴兵通知を届ける吏員の頭数を算定し、出て来る兵士の集合時間を算定するのに必要」 という意味のことが記されています。

 得られた画像を公表するには、少し時間を下さい。(2014-01-19 代表的な画像を公開しました)
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今年の道 1

  今年の 「道調べ」 は、条里の道から大きく踏み出して、出雲街道と西国街道 (山陽道) の調査に重点をおきました。
  倉敷道 (備中・天領の倉敷への道ではなく、美作・林野への道)/津山往来/庭瀬往来(撫川みち=鴨方往来) にも眼目を向けました。

  その中でハイライトは、この B-Log の意味のトピックは、2005年段階の岡山市と御津町の境に位置する、辛香峠の南麓の 「津山往来」 の踏み分け道です。

   津山往来 踏み分け道


  民家の庭先みたいなところを進みます。 このルートは公式には認定されていませんが、前後の関係で、理解できます。
  お籠や供揃えには幅が足りませんし、現代生活でも余り活きていないかもしれません。 が、こんな細道が残されていること自体が、却って、もっともらしい気がするのです。 四国の遍路道を歩いているときなどは、こんな道には、迷わず入ってゆく~~なにか、「空気」 が漂ってくる道です。


いま

  暫く、此処へ書いていません。  興味が失せたわけでもなく、体調(心情)異変が起きたわけでもありません。

  日曜には、60~70kmほどの距離を(古代尺で言えば「百里の道を」)自転車で走って、往路で「旭川東」の賞田の条里を体感してきました。  帰途、「東窪田」の「なめ石(縄目石)」を探索する予定でしたが、これは時間の関係で諦めました。
  その前の、一週間前の、土曜には、東予・石鎚山の別当寺の横峯さん(750m)に這い登って、途中の平地の墾田の様子をみてきました。

  以前にも書いた、先達・高重進先生が学生を指導してなさった、「備前・備中の条里調査」 の報文を読んでいます。  特に、方位角を丹念に調べられた部分に興味を持っています。 先生たちは「事業施行主体」に興味をお持ちなのでしょうが、筆者は、それも重要ですが、「技術」 「天文観」の側面から「方位角は如何に選び取られたか?」 を読み解こうとしています。

  簡易GPS機器のテストをしようとしながら、放置したままです。

細い道(街中編)

  かねてから、地図の上では気になっていたが、忘れていた小径があります。

  今日、小雨の街中を歩いていて、その小路に迷い込みました。  迷い込むと言う表現以外考えられません。
  結論的には、長さが600mあります。  部分的には、車庫代わりに車が這入れる部分もありますが、80%以上は両手を広げると壁や塀に届く狭さです。 塀の部分は少なく、飲食店の匂い/小さい作業所の音/生活の気配 が肌身に感じられる空間です。  1/1万地形図で表現できる最低の幅かもしれません。

  場所は、北端が岡山地裁(厳密には地裁と家裁との共通の敷地)の南辺に遮られ、南端は駅から城下へ向かう電車道に行き当たります。  今の住居表示では、富田町と野田屋町を貫いています。
  西川(右岸)から220m東にありますから、ラインとしては、X=+4 に相当するのでしょう。

  この道が一層興味深いのは、「街中で良くぞ生き残った!」 という点と、既にどこかで述べたように、この辺りの街路が江戸期の 「再開発」 の影響を受けて、条里メッシュから外れているにも拘らず・・という点にあります。

  このラインは、北へ行っても繋がりそうなものはありません。 学南町あたりに僅かに可能性がありそうで、「岡山放送(元の農事試験所)」敷地の東端がそれかも知れません。  南も目覚しいものはなく、田町/中央町(江戸期の寺町)まで行くと、断続400mの小径に可能性を残すばかりです。

テンプレ-トを変えてみました

新年度も近いし、少し気分を変えてみました。

  テンプレートを変えたら、付随して、文字サイズが小さ過ぎたのを改善できました。  ちょっとご機嫌です。
  ここの記事が余りにも断片的で、別の切り口から眺めたい方は、別の BLog へ!


プロフィール

ラスカル君

Author:ラスカル君
ブログ『極道』へようこそ!
予測を裏切る可愛い顔ですみません。
大昔、某私大の学生さんが、更に
20年前を想像して書いてくれた、
『Y教授の若い頃』

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