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河津桜@妙林寺

 歴史は浅いが、最近 「河津桜」 に注目が集まっています。 ソメイヨシノより、一月ばかり早く咲き始め、ほぼ一月断続的に咲くので、「お得感」 があります。
ただし、一輪ごとのの花期が長いわけではないが 「潔く散る」 イメージはありません。 花色は寒緋桜のDNAを受け継いで、かなり濃い色ですね。

岡山市街地で早くから植栽している例は、三門の妙林寺かも知れません。 2010/02/24採録しました。
児島湖周辺では、現在、幾つかの植栽計画が進行中ですね。

   河津桜B

         河津桜A

ご覧のように 「咲き初め」 ですが、この一週間で、一気に開花すると思われます。

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絵馬

  神社で絵馬を探すのも興味深いものです。 一番のターゲットは職業柄もあって、算額、つまり、和算の設問・解答を板絵にしたものにありますが、大都市から離れていると、「文化・嗜好」 の伝搬を示すものに出遭うと嬉しくなります。

  以前の例では、大坂相撲の番付表で、米子出身の力士が、1~2年だけ備前藩に抱えられ、鳥取に召し戻された例に遭いました。 今日はそのことはさておいて、歌舞伎の話。

  正直言って、私には歌舞伎を語る素養はありません。 わが父は生きてあれば、つい先日、110歳になる勘定の人ですが、「三高・京帝大」生 として青春を過ごした世代ですから、話としてはよく聴きました。

  前置きはそれぐらいにして、総社市の北東部に 「阿曽(あぞ)」 という鋳物師の郷があります。 鋳鉄だけでなく、銅・梵鐘などを造った時代もありまた。 古く辿れば、ヤマタノオロチなり、桃太郎のオニの伝承に繋がる技術集団の村だったのでしょう。 その鎮守・阿宗神社で見つけた、役者絵です;-

 取材画像 156_Cut484

  明治六年酉と読めます。 それほどの知識がなくても、画題は助六・揚巻だと想像できます。 刀と桜が揃えば、「助六ゆかりの江戸桜」 ですね。 そうです、「助六すし」 の助六です。
  書斎に戻って、気になって、「明治6年の当時の『助六』」 を調べてみました。 すると、これからが芝居のウンチク話(の受け売り)。

  明治六年には(正確には翌年かもしれないが)、九代目團十郎が襲名された年で九代目團十郎襲名を約束された河原崎三升により、成田屋の 十八番の演目として 『助六所縁(ゆかりの)八重桜』 が打たれたと言います。 ご一新の息吹を感じながら 「江戸桜」 を 「八重桜」 に書き換えたのも時代の反映だと言われます。
  最先端のファッションがその年のうちに社頭に掲げられたのでしょうか? 文化・芸能の伝播の速さを測る上で、興味深いものがあります。
 

(東)十四ノ坪

  今日、もう一つ橋梁名を見つけました。  吉備線沿線です。   


  吉備線の列車が岡山駅を出て、2つめの踏切は、前にも記した「二ノ橋踏切」 です。  その北西隅で「十四ノ坪橋梁」のプレートを確認しました。  溝が殆んど隠れていて、コンクリートの塊だけが露出していたので、「橋梁」とは思いませんでした。
  
その直ぐ西に「開きょ」があって、以前に名称を探ったのですが、成功しませんでした。  「二ノ橋」の名称が気になっていたのですが、どうやら、ここで、2つの溝が合流していることに由来するようです。  片方は完全に東西の坪線だと理解されますが、南北のラインは厳密には坪線ではありません。


  「二十四ノ坪」は、永山地図では、「東二十四坪」に相当しそうです。   また一つコレクションが増えました。

見えたら見えてくるもの

  一本のラインが見えると、今まで見過ごしていたものが突然見えることがあります。

  2つ前の稿で、X=+5の線上に「ベネッセ本社」を『発見』したことを書きましたが、ベネッセの街区から110m南にスキップした南に、約110mの細い細いラインを見つけました。  あるいは用水単独かもしれません。  皮肉なことに、私の買い求めている1/1万 地形図では、ちょうど山折の線と一致して擦り切れが始まっています。

  急いで、1/2500 岡山市域図を調べます。  地図で見る限り4~5mの単独道のようです。  また現地を歩きましょう。
  長さが僅か110mで、大騒ぎするような代物ではありませんが、その先に道幅を少し広げて約80m続き、裁判所敷地や寺に遮られて、そこを過ぎるとまた400m余り辿れます。  「県道美作線」の一本西(約25m西)です。
  このラインに意義は、「番町界隈の江戸期の再開発」を潜り抜けて生き残っている可能性にあります。

南方・津山線沿線

  橋梁と踏切の踏査結果を述べます。

  結論を先に述べると、JR吉備線での「地名収集」成果に較べて、得るところは少なかったと言わねばなりません。  つまり、踏切名は駄目押し状態で、写真収録でした。
  橋梁(開渠)類については銘盤がないものが殆んどでした。  僅かに、「座主川橋梁」の写真収録と、以前から懸案になっていた「踏切の化石」の確認が大きな成果でした。
  この化石は、「こどもの森」東方で、「坪線」の中央線に位置しますが、事実上閉鎖された踏み分け道でした。  ただし、両側に溝付きの畦道が残されていて、東側は舗装されており、西側は新築の家の鼻先では、丁重に整地されていました。 溝には「鯉堂 開きょ」が架かっていましたが、名前の由来は不詳です。

  追加的には数箇所で、「旧町名」を表示するアイテムを写真に収めました。  例えば、町内会設置の「消火器」に付された旧町名です。  せいぜい戦前か敗戦後にしか遡りませんが、これは新しい着目ポイントです。  従来は「町内掲示板」の旧町名に眼を向けていました。

    minamigata16.jpg
 南方中道町内会

  新規の町名の発掘ではありませんが、琺瑯看板収集者にはタマラナイ「旧町名表示」盤を写真収録しました。  詳しいポイント、たった20文字で説明できますが、教えることは出来ません。

    m_kanban16.jpg

  琺瑯町名盤「南方」
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ラスカル君

Author:ラスカル君
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予測を裏切る可愛い顔ですみません。
大昔、某私大の学生さんが、更に
20年前を想像して書いてくれた、
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