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景観動向研究所・甲

 イギリスの諺に 『ソーセージと法律を作る現場を見てはいけない』 というのがあるそうです。

通常、アートの制作現場はあまり見ることがないが、現代アートになると、場合によっては 「参加」 する場合さえあります。
「玄さん」 と呼んでいる、古い友人が、岡山駅の大階段の下で仲間の助けを受けて大きなオブジェの制作をしていました。 制作途中をWEBに公開するのはルール違反と言われるかも知れないが、掲げてみます。

 出来上がるであろう作品の最終形を軽々に予想できないが、取り敢えず巨大なコクーン(繭)としておきましょう。 筆者は過去の彼の作品を知っているから、もう少し具体的な 「もの」 に仕上がることを予想していますけど。

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石のしるべ~里程標~

 暫らく放置していましたが、『極道な唄』の画像庫として使用再開します。  宜しく。
  最近の、専らの興味は、石のしるべの内、明治初期の国の(新政府の)道路行政の混乱と収束の調査過程の記載にあります。 必然的に江戸期にも踏み込みます。 あ、対象地域は断らない限り岡山県下、更に絞り込めば備前備中の南部です。

  岡山から南の方に進む 「金毘羅往来」 と呼ばれる道があります、他にも下津井・讃岐金毘羅を目指す標準的な「金毘羅道」はありますが、ここで述べるのは、明治一桁からせいぜい二〇年迄の時代に『国道』の地位を争った2ルートのひとつです。 事実、写真(昭和40年新聞記事)の石柱の道は『明治国道31号(M19布達)』に相当する道と考えられています。

岡山から壱里

なお、この石柱の10~20m左に「新道」が付けられており、柱は消滅寸前です。 昭和50年代ごろには消えたようで、収納先を現在探索中です。
「距岡山元標壱里」と読めるようです。 左面に刻字はないようです。 設立年/設置者は不詳です(通常裏面に 明治○○年岡山縣 と彫られる)。 類例はどこにあるのか、「弐里」は有るのか無いのか探索中です。

永山条里図読み直し

  下に、県立図書館に行ったことを書きましたが、併せて、「永山条里図」を少しだけ詳細に読み直しました。 
  4つめの収穫です。   なにしろ、膨大な著作なので、コピーすることも丁寧に読むことも困難です。  今回の目標は、岡山県南部地域の例で、「方位」に関して、結果的に、幾つぐらいに分類されているかをチェックしました。  明日にでもこの続きを書きますが、氏の作図に分度器を当てて、2~3度程度の精度で読んでみました。  概ねのところ、筆者が、先日書き上げたものと大差はないようです。


 

大正10年代の資料

  今から100年前が何も判っていないことに気づかされます。  畏敬するY学兄から、大正10年代の市役所の図面の存在を教えていただきました。

  無条件の公開資料ではありませんから、詳しく書く積りはありませんが、ある地域について、田圃の一枚一枚の地番まで判ります。  法務省所管の「登記簿」と対になった、行政役場所有の「切り絵図」に相当するものの、特定用務のための写しです。

  この場合には、当時の道路事情がわかることと、小字名(坪名に大きく関わる)が判読できることです。  永山卯三郎氏の「条里地図」の絵解きには判読困難な文字もありますが、相補的に理解を助けてくれます。

  行政資料は近世の歴史の宝庫で、丁寧に保存されること、詳しい検索システムが作られること、もちろん、適切に公開されること・・・が大切です。

神社の氏子

  この弧列島に棲む我々は、・・・普通の人はここで、「日本人は」と書くところだが、・・・

  1300年前を眺めていると、「日本人」の定義が揺らいで来ます。  それは、急に「渡来人崇拝」になるというわけでもなく、逆バネの「大和民族凄いんだ 主義」に足場を移すのでもなく、「女性天皇・女系天皇」に異議を唱えるのでもなく、諸手を上げるでもない自分がいます。
  とりあえず言うと、『そのような視座で見ることの無意味さに気づかされる』のです。  1300年昔に、道を創らせ、それを指揮し、それに黙々と携わった人々がいることは確かなのですから・・・  

  ともあれ、仏教が隆盛を迎えつつあった時だとしても、「弧列島に棲む我々」のDNAの中にはアミニズムの血がたぎっていて、「カミ」を信じて来ました。  過去の100年ほどの不幸な心理操作の時代の効果を差し引いたとしても・・・  それゆえ、殆んどの人が、寺に属し、(「ウジガミ」という名の)神社に関わって来ました。
  特に、「ウジガミ」への関わりは、「地域ぐるみ」が基本でした。  文献学的には、今から丁度1100年遡って、『延喜式』と呼ばれる「法令施行規則」に例えられる文書に根拠が置かれると理解されています。

  元来は「ウジガミ(氏神)」のコトバが示すように、同属の集団の祭り神でした。  みんなが、同じ生業に就いているような「村社会」ではそれで充分でした。  しかも、集落がまばらな時代にはそれで問題はありませんでした。  ご一新までは、京、大坂、江戸以外では、それに近い生活形態でしたから、大きいときには「村」がその単位でした。  『村の鎮守の神様』のフレーズがそれを示します。  小さくても、「大字(おおあざ)」がその単位でした。

  話が長くなりました。  このような歴史を背負っていますから、今でも、町内の祭り神の氏子の範囲を地図上に描けば、「村」の境/「大字」の境が浮かび上がって来るはずです。

  つい先日、最近色々と教示を受けているY学兄から、昭和30年代の「氏子区域図」の複写物を頂きました。  はっきり言って興奮しました。  手書きの、縮尺も怪しい代物でしたが、最近頭の中に棲みついている「メッシュ」と端々においてピタッと重なるのです。  頭の中で、モノクロームで描かれていたメッシュに、突然「蛍光ペンの色が着く」のです。
  例を挙げると、「三門・国神社」の氏子域の北辺はY=-12のラインで、南辺はY=-24のラインと読み取れますから、これはまさしく「石井村」の範囲です。  南はY=-24のライン(野田用水)で「鹿田村」に接しています。  東辺は微妙なところに引かれていますが、明治24年(1891年)の「岡山駅」開業の影響を受け、大正10年(1921年)の岡山市への編入で修正されたと理解されます。  西隣の「大野村」との関係で見るならば、「国神社」と「野田・八幡宮」の氏子域の境は村境に一致するようで、X=-12のライン上にあります。
  「大野村」側から見て記述するならば、この村の北辺は「石井村」と「能登川用水ライン」を境として接しており、およそ1300m南の東西線で「今村」と接していますが(M31陸軍地形図)、この辺りで「野田・八幡宮」の氏子域の境が村境と重なることが読み取れます。
  一方で、操車場が拡張されるごとに、村域(氏子域)が蚕食されて行ったのが「VIDEO映像を見るごとく」に想像できるのです。
  「野田・八幡宮」は今では、明示的には、40m角ぐらいの小さい社域ですが、永山氏の「条里地図」に突き合わすと、330m角の(9「坪」の)中に、「宮裏」、「鳥居ノ下」、「宮前」の名称が認定されています。
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ラスカル君

Author:ラスカル君
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予測を裏切る可愛い顔ですみません。
大昔、某私大の学生さんが、更に
20年前を想像して書いてくれた、
『Y教授の若い頃』

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