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方位感覚 つづき

  直前に書いた中で、「真東」を太陽に依存して決めるのは難しい・・・という主旨は伝わったでしょうか?


   いにしえ人が、「直角」をどのように作っていたかにも大きく依存します。  今の知識から遡って推測すると、直角を実現するには、大別して、2つの方法があります。  ひとつは、手許の道具で作り出すことです。  例えば、コンパスあるいはぴんと張った一本の縄。  これで、「菱形の対角線は直交する」定理を使います。  「縄」を使う、異なったバージョンは、私が夢想して、その後書物の中で読んだ話が、「ピタゴラスの定理 3:4:5」です。  書物に依ると、「12個の結び目を持った縄のリング」だそうです。   

  大別の2つめは、北辰と太陽を使う方法です。  北辰の方向で「南北」を定めます。  晴天の夜なら容易にできます。  次に、「鉛直」の立てた棒の影を地面に写し取ります。  南北が判っていますから、その前後で影の長さが同じとき(午前と午後)の影の先端を結べば「東西」が得られます。  晴れた日ならば、季節に拘わらずできます。
  原理的には南北がなくても決まりますが、完全な鉛直と完全な水平面が作れないときには、精度が極端に悪くなります。  つまり、予め南北線が定まっているなら、「影が同じ長さになり、且つ、影と南北線との角度が等しい」条件を探れば精度が上がるからです。  つまり、「日(太陽)時計」の原理の一部分だけの導入です。
  ここで、時計のことを、再び、書いておきましょう。  近現代の意味で天文学を確立するには、「時間差」だけでなく、「時刻」を読み取る時計が必要になります。  水時計や砂時計は前者の読み取りに適した装置です。  「日時計」は、方位が定まったときに、はじめて、「時刻」を示し得るのです(水平と鉛直の設定技術は必要!)。  つまり、「方位」を決めることと「時刻」を読むことは、裏表で、お互いに補完・従属的な技術なのです。


   このように見て行くと、北辰と太陽に頼り切った技術では、「正方位の」メッシュは容易に創れますが、たとえば30度も傾いたメッシュは作成困難です。  仮に、「東西」を特定の季節の(あるいは特定の山頂からの)日の出に依存するとしたとき、「南北」の決定を星に頼ることはできません。



   いま、筆者は、菱形のメッシュは存在しないものか? 本気で捜しています。 つまり、南北が正方位で、東西が春分・秋分以外の日の出に依存している例が存在したら新しい「定説」が生まれます。

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古代人の方位感覚

  昨日、東讃岐を歩いたには、水利技師・弘法大師に会いに行く気持ちもありました。  ですから、山嶽地を選ばずに、平地を目指したところがあります。


   往き道の列車の中で、いにしえ人の方位に対する感覚や、その測り方を考えていました。  直角の作り方には、先に記した、
  1)紙(布)を2回畳む、
  2)コンパス様なもので作る(菱形の対角線は直行する)、
  3)[仮説ながら]3:4:5の三角形による ・・・などが考えられます。  
一旦、南北軸が決められたら、
  4)朝方と夕方で、太陽の影の長さが等しくなったときの影の先を繋ぐ・・・ 
方法もあり得ます。  この方法では、時刻として正午が判る正確な時計があれば、南北軸も決めることができます。  この、時計と天文学の後先を巡る論議は、いたちごっこですから、時計=日時計は少し後で確立される知識としておきます。(現代人は当たり前だと思っていますが、時計の役割には、「時間差」を知ることと「時刻」を知ることの2つが要求されるのです。 水時計は、かなりの精度で「時間差」を教えますが、「時刻」は教えてくれません。)


  さて、「春分・秋分には太陽が真東から昇る」 ということは、基本的経験則として古くから知られていたとするのは常識でしょう。  しかし、わが国のような山や丘に囲まれた地形で、「日の出」/正確な 「春・秋分」/「夜と昼の長さが同じ」 がどのように認識されたかは疑問です。  特に、「渡来人技能者集団説」 では、「渡り職人」が各地固有の状況をどう織り込んでいたのでしょう?
  それに対し、「夏至」/「冬至」 の認識はもう少し判り易く、一般農耕者にも早くから判っていたでしょう。  実は、このことに昨日気づきました。  つまり、日の出の方位が 「北」 にずれる、その極限が 「夏至」 で、「南」にずれる極限が 「冬至」 です。  単なる計測論からしても、「平衡点」 は決めがたいが、「極限点」 は決め易いのです。


  この稿の小さい結論は、方位の決定には
  A)北辰による南北軸決定、を第一の手法とし[これなら、2~3夜待てば決定できる]、次の順位として
   B)「夏至」/「冬至」の知識を基準として東西軸を決める・・・ その後何らかの方法で直角の技法を適用する・・・ であった。  恐らくそうだったと暫定結論するのです。

八十七番・長尾寺

  訪問したページを間違ったかなと思われました?


  天気の良い日曜日、讃州・長尾の八十七番寺に参りました。  正確には、その先、納め寺までの道半ばに前山ダムがあって、その畔の 「野仏百体」 と称せられる野の仏たちに遭いに行ったのです。
  ここに書いた理由は;-  かつて書いたように、条里の時期も弘法の時代も殆んど同じ刻なのです。  しかも、大師は、冶金 (探鉱採掘)・治水に知識豊富だった 「博物学者」 であっと理解されている側面もあります。  大いに縁があります。  歩き初めの駅は高徳線・造田・・・ この名前が既に妖しい。  歩いてみると、この「造田駅」のごく近傍は道筋が乱れて、「条理遺構」 というのは難しいかもしれません。  が、南に進んで 「長尾」 に近付くと 「造田」 の字名を冠するところで、方格が始まります。  長尾の集落周辺から 「前山ダム」 に至る途中は、かなり精密なメッシュが認められます。  ただ、「鴨部川(かべがわ)」 と支流は小さいながら勾配もきつく、歴史上暴れたのでしょう、ラインは相当乱れていました。
  帰宅して、改めてWeb地図を調べると、長尾寺を挟む南北700~800mのベルト地帯は東西2km以上に亘って読み取る意味があるほどに、保存されています。  モジュール概算値としては109.8mが得られました。


   平地の寺、八十七番長尾寺は、おおよそ一坪の中にスポッと納まっていました。
条里研究の先達で存命の方のお一人、高重進先生は、この町の西隣に由縁のある方で、今そこにお住まいのはずです。  筆者としても過去にご縁があったので、時期をえらんで教えを受けたいものです。


チョット思索の時間

  本当は数理解析の技術的なところに問題があるのだろうけど、・・・


  他方で、哲学と言えば大袈裟な、方法論の問題で時間を掛けています。   今、自分がしているのは何か?・・・ ということです。  数理的な意味の結論 (目標) だけを書いてしまえば、『最良で1m程度の精度の道具(手段)を使って、古代人のゲージが109mだったのか、108.5mだったのか? 109.5mだったのかを調べよう』としています。  「1mの精度」 は私の問題で、PC機器の限界で、Web地図/紙地図製作者の問題です。  向こう側の問題としては、いにしえ人が360尺を測るとき1尺にこだわったのか? その精度の 「縄」 を持っていたのか? 「直角 あるいは 方位」 にこだわったのか? 角度精度を保ちえたのか?  加えて、彼 (彼女) らは360尺で設計したのか? 360尺+α (あるいはβ) で設計したのか? の問題まで派生しました。
  精度だけの問題なら、多数このサンプル (データ) を集めて、数理操作 (統計処理) すれば、「1m」 の精度が 「0.3m」 にまで追い詰められるかもしれません。  そこを拠り所にしています。  が、一方で、データをたくさん集めれば真実が見えるかというと、恐らくノーです。  具体的に言えば、3km余り続く道が精度よく認定できたとしましょう。  現実にそれほど難しいことではありません。 109mゲージで言えば、30ポイントほどのサンプルが得られます。  「単純平均が意味を持つならば」、(統計学的には)・・・0.3mの精度は期待可能でしょう。


   湿地帯の中を 「縄」 を持って走り回る技術者集団を想像して下さい。  雪の中で、ヤード鎖を手繰るアメフットのオフィシャルを想像して下さい。  数インチ/一尺 の目標精度の差はあれど、彼はせいぜい30ヤードの中の世界、此は (多分) 2000尺の広がりを意識しています。  しかも、此は、長さの精度だけでなく、角度 (方位) の精度も要求されています。  そのとき、どちらが優先するのでしょう?  その答え次第では、数理操作(統計処理) で取るべき手法が変ってくるはずです。   具体的な試行については、昨日記載した、津山線を挟んで併走する 「幅が狭い道」 のモデルに戻って、別項で記載します。  このモデルでは、「道幅が狭いゆえに (昔の姿を残していると仮定して) 高々200m四角の空間で評価する」という手法だったのです。

消える道 遺る道

  道が残され(遺され)、消されるとはどういうことでしょうか?

  これまで、「遺構」 という言葉を安易に使ってきたかもしれません。  推定線の上にある道が全て「条里道」だと断定した積りはないけれど、自分の中に、「おお、残っている、遺されている!」 という感覚があったことは事実です。
  M31年地形図を見ていると、また少し違った見方が生じます。  つまり、この地形図になくて、今ある「メッシュの上の道」はどう理解すべきかということです。  もちろん、M31図には、田圃の畦道を記録しているわけではないので、殆んどの「道」はその時点に潜在的な形で存在したと理解します。
  他方で、明らかにM31図以降に造られた道、とりわけ国道/県道/主要市道 クラスのものは、どのような経緯を経て出来たと考えれば良いでしょうか?  ここで、M31年図の重要性に気づかされます。  この年(この時期は)、まさしく、富国強兵が具体的に進行する時期です。  約10年後に、岡山に「旅団」が置かれ、いずれ「師団」に昇格するという夜明けの時期です。
  このように考えるとき、「道造り」「施設作り」はその時代背景を反映しているはずです。  それまでの「道」は、個人の、あるいは個人の小さい集団の、日常生活の利便性に基づいて、かなり自然発生的要素を受けて発達したと考えられます。  なるほど、条里の畦道自体は、往時の国家権力/地域勢力により造られたかも知れませんが、生活道としては、「日常の利便性」抜きには発達・発展することがないのです。
  明治期後半以降に、行政主導の道造りに移行したとすれば、「日常的利便性を避けて」、あるいは、「利便性を補完する意味で」造られてゆく部分があるでしょう。  そのとき、当時の設計者は、「条里の畦道」を意識したかどうかということです。

  話しは少し外へ向かって広がります。  先に、『小学校の敷地は、「2坪」の中に収められた(はめ込まれた)』という仮説を述べました。  この例は、まさしく、ここで道造りについて考察に含めようとしたことと同じです。  「御野小」の例は既存集落の影響を強く受けたと判断しましたが、その他の比較的歴史の古い小学校の多くは、「集落を僅かに避けて」、しかし、「利便性の低くない」ところを選んで立地せしめられたということです。

  近代的な意味で道を設計するときには、小学校敷地の200m程度のサイズではなく、1km~2kmのサイズでの要素の影響を受けますから、同列には論じられませんが、(多くの場合用水を伴う)畦道の存在には影響を受け易いのでしょう。  ここでも、メッシュの「ゲージ」が約100mというのは「手頃なサイズ」です。  仮に、メッシュのゲージが「1里=600m余り」なら、里線に沿う道に拘泥する人は少ないでしょう。  100m間隔の畦道が眼に見えて存するとき、その中間に線を引くのは、それなりの動機が必要です。
プロフィール

ラスカル君

Author:ラスカル君
ブログ『極道』へようこそ!
予測を裏切る可愛い顔ですみません。
大昔、某私大の学生さんが、更に
20年前を想像して書いてくれた、
『Y教授の若い頃』

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