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2つの踏切

リアルタイムで書いています。

  ODM(岡山デジタルミュージアム)にボランチで行く前に、気になっていた2つの踏切を見に行きました。
  一つは JR 津山線の上にあるもので、記憶の中で 「天神縄手」 だと覚えていたもので、いかにも記憶通りでした。 「縄手」 は、文字通り、「畷」 の元字で、「畔を縄で測った」 ことを文字に記憶しています。  位置は、
   東経 133.92411 deg  北緯 34.67807 deg
に相当します。  これは、先に設定した座標線で言えば、Y=-3 のライン上にあります。
  「なわて」は、ここ岡北中学区で言えば、「津島福居」の山際を走る 「福林(輪)寺縄手=平安時代の山陽道」 にも名を留めています。
  なお、「天神縄手」 の地名は、永山卯三郎氏が再発見された坪名の中に記載されています。
  この T=-3 と考えられるラインは、現在では北側・学南町一丁目(昔の北方/北富)と 南側・南方四丁目との境界になっており、恐らく小学校区の境になっています。 (この2行 05/1201 追記)

  もう一つの踏み切りは、南東に進んだ、山陽本線上にあり、「平畦」 の名前を持っていました。  これもまた、「畔道/畦道」を示す地名の残滓です。  これは、
   東経 133.92479 deg  北緯 34.67695 deg [06/01/25 修正を再修整]
に相当し、Y=-4 のライン上にあると言えそうです。
  「平畦」 の名前が、永山氏の記載に残されているかどうかは未確認です。 <051207 確認したところでは、永山説では、ライン Y=-3 の北側の東西4坪分に 「天神縄」 の、ライン Y=-4 の南とその南隣の2坪分に 「平畔(!)」 の地名を認定してあります。 (昭和11年岡山市史)>

  これらの例を見ても、鉄道の踏切 に残された 「記憶」 は重要な意味を持つことが判ります。  古い路(道)が、新しい道に横切られるときも、物理形状としては 「記憶」 を残しているもので、それも重要ですが、殆んどの場合 「名称」 で残ることはありません。  古い路が、第1級の路の場合に限り、「四国街道/金毘羅みち/△△別れ」 として記録に残ります。
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基本的な数値

リアルタイムで書いています。 一部分05/12/21に加筆・修整

  経緯度差と距離の換算

  他のところでも述べたように、当面の作業は注目地点の経度/緯度の値で扱います。  ただ、それらの差を距離に換算する必要も直ぐに出てきます。
  言うまでもないことですが、緯度の1度に相当する地表での距離は経度が変わっても事実上一定ですが、経度の1度に相当する距離は緯度が変われば変わります。  西瓜の縞の幅が蔕[へた]の部分や花尻に行くと幅を狭めるのと同じ原理です。
  ここでは、
  経度の1度(deg)= 91.60km; 1km=0.010917度(deg)
  緯度の1度(deg)=110.93km; 1km=0.009015度(deg)
を採用しておきます。
  上の角度と距離の関係は、『理化年表』 などで調べることができますが、ここでは、1/10000 図・岡山 で実測換算しました。

  基本モデュール
  既に書いたように、1坪の幅は60間であると考えられています。  このときの1間=6尺は、とりあえず現代の曲尺;1尺=30.3cm を仮に採用しておきます。  唐の小尺 = 29.6cm を採るべきと言う議論も承知しています。 その値を議論し、確定することもこの作業の目的の一つだが、「不確定のスパイラル」 に入ることは避けたいので、通説(?)に依ります。
  60間=360尺 ですから、約109m(唐小尺に依れば107m弱)になります。  これは、上の数値を参照すれば、
    東西で11.908/10000 deg、
    南北で 9.834/10000 deg
の角度に相当します。
  また、1里=360間ですから、約654m、経度/緯度角は、それぞれ、上の数値の6倍となります。
  これらの値を基本モデュールに選びます。

How どうやって?

どうやって(How)探すの?

  Web地図の活用


  幾らか書いたように、最終的には現地踏査に勝るものはありませんが、何時でも何処でも行ける訳ではありません。  また、いきなり現地を歩くと、余りにも小さいローカル事象に眼が向いて、却って不適切な方向に向かうこともあります。
  妥当な方法として、私は、Web地図を活用することにしました。 既に幾らか書いていますが、容易に使えるWeb地図は3~4種あります。  一長一短です。  好き嫌いもあるでしょうが、クリック数が少なくて、細かい移動ができることが一つの要件です。  誤った結論に陥らないためには、位置精度と確度が高いことは勿論ですが、その後の処理が簡易なものが宜しい。
  私の場合は、検討の結果、主に Google 地図を用い、他のものを併用することにしました。  見かけ上の精度は、市街中心地で、1/3000縮尺が使えるのはいずれも同じですが、細い小路まで描写している点では優れています。  緯度経度が、分秒表示でなく、度の小数点表示であることも、今の場合好ましいと考えます。

  距離座標でなく、経緯度座標の採用

  最終的には、適宜な基準の座標点を選んで、距離表示する方が実用的なのでしょうが、当面は、経緯度座標で作業を進めます。  第一の理由は、どの Web 地図の場合でも、地図上の点の位置を読み取る(指定する)には、経度緯度の値として直読できるからです。  また、地図上の位置認定は (私の手法では)、最初に暫定的に設定して、後で全体との関係で修正することを良しとするからです。
  加えて、今考えている対象地域では、東西/南北 の基線が殆んどブレてなく、距離座標に変換するまでもなく、数個の点(メルクマール)の直線からの外れが容易に評価できるからです。

  地域、地区によっては、基線が東西南北から明らかに15度~30度傾いている例があります。  多くは、河川・丘陵などの地形的要因によると思われますが、そのような例では、新しい手法を編み出す必要があるでしょう。  「直線からのズレ」を評価するには、位置座標表示にしたからといって、容易に解決できない課題を含みます。  ズレ・外れが、東西とか南北とか決まった方向に出現しているとは限らないからです。

  ズレについての注記

  ズレ・外れ と簡単に書きましたが、要素は少なくとも3つあります。
  第1は、本来の点あるいは線が歴史的変遷の中で変位したものです。  具体的に書けば、現在の田圃の畦道を見ても、「諸般の事情」で、大きく歪んでいる例(事情を推測できるほどユガンデいる例)に出会うことがありますね。  勿論、合理的判断で 「付け替え」 がなされている例もあります。  人の営みだけでなく、河川などの地理事情で変遷したと理解できる例もあり得ます。
  第2には、「認定間違い」 があります。  最初の認定は、あくまでも地表の現況から推定するわけですから、「誤認」 や 「軽い勘違い」 も避けられません。 読み取り結果を無闇に修整するのは、恣意的結論に陥るので、避けねばなりませんが、逆に、あまり頑なに考えないで、「統一的な基準で」途中修整することも恐れてはなりません。
  第3は、技術的/数理的/統計学的 な 読み取り/換算誤差に依拠するものです。  この場合は、予め、数量的に誤差範囲が予測できますから、それに応じた対策がとれます。

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改めて見えてくるもの 1

05/11/17記載 一部後日加筆
  このところ読んだ、先輩の仕事を見る限り、地理/歴史の研究者の仕事が中心なので、「条理遺構」の発生時期を大宝律令以前に遡れるかどうかの議論が圧倒的です。
  例えば、一つの盆地の中で条理のメッシュが乱れていたら、二つの制定時期が混在している・・・ どちらが古いか? というところに向かうことが多いようです。  方位の違いを制定年代の違いに求めようとする試みもあります。(その手法は、最終的には、承認されていない?)

  多くの人達が悩んでいることは、あれだけの大規模/広範囲な「土木工事」を、10年やそこらの短期間にやり遂げることの困難さです。  一つ一つの「工事」について、あれ程の技量があったかどうかを問題視する人は少ないようです。 「渡来人集団」 のコトバのマジックで片付ける人も少なくありません。
  近年の交換分合を例にとって、『既に耕地化されていても、区割を整えるだけで、数年を要する(往時は、沼や雑草地を開墾したはずなのに)』と疑問を呈する人もあります。

  つまり、この人たちの興味は、『幾何学模様の存在/伝承』自体の解明や、技術力/世界観の推定よりも、『幾何学模様を形成させた(それまでの)政治・経済基盤=国家権力』の推定に重点があるようです。  興味の『森』は一層深くなります。

  私は、依然として、1尺の長さについて「悩んで」いるのですが、文献の中で、このことを深く追究する人は少ないようです。  往時の小尺/大尺(高麗尺)の使い分けについての議論も矛盾が残るようで、他方で高麗尺の存在(実質的な普及)自体を疑う議論もあるようです。
  私としては、尺の問題の他に、畦道や大溝の幅(マージン)は、格子策定のときの内法(内税!)だったのか? 別途に加えられた(外税!)のか? についても興味があるところです。  ただ、今予定している手法では、計測や統計処理の誤差の中に埋もれて、結論を得るのは難しいように思われます。

路の探索 2-下

リアルタイムで書いています。

  午前中の記事で、「形骸として維持される踏切り」 を見つけたことで、古い路の候補としてのランクが上がるだろうという意味のことを書きました。
  途中で消えた経路を追って、東に向かいます。 5~7mほど北へ迂回することで、住宅地を迂回することが出来ました。  一枚分の田圃が残っています。 南側が田圃、北側が住宅化した舗装道を進むと、不思議な狭い空間を見つけました。

20051124211138.jpg


  幅は、1m足らずで、両側を塀に挟まれています。  画面では少し判り辛いが、この路はホッケースティック上に折れ曲がっていて、「スティックの先」の側から見ているのです。 「柄」の長さは、およそ30mぐらいあるでしょう。  人々が歩く形跡はありません。  誰のものでもない! と宣言しているような空閑地です。
  実は、津島界隈(岡北中学校区で)で、このような小路(長さおよそ200~300m)を他に2ヶ所見つけています。  それらは、単車(原チャリ)の通行は許しているようですが、すれ違える幅ではありません。 いずれ詳しく書きましょう。

  この「柄」の部分は、先ほど来書いている路と一直線上にあり、最終的には、「岡北中学」 敷地内のX=6、Y=6 点に結ばれるのです。

  この、

道の探索 2

リアルタイムで書いています。

  11/5 ごろの記載で、実地踏査の大切さを書きました。  昨日、現地を歩いて、Web地図(1/3000相当)では判らないディーテルを見つけました。
  いま、私が仮に「Y=6」と名付けている東西 「里境」 の話です。  (岡山市立)岡北中学の地下に、このラインと、仮に 「X=6」 と名付けている南北ラインの交点が眠っているはずです。  その点は、概略位置を 「東経133.9270/北緯34.6871」 と考えておきましょう。  あるいは、西に3/10000 度ぐらいずらす必要があるかもしれません。
  この Y=6 ラインは、長さにして2 ‘里’強(約1,400m)を旧陸軍用地(現・岡北中/岡大)と官用地に押さえられて、消滅しています。  西には、候補となる直線路が80mほど残存していると考えられます。

  さて、その道の東側の探索です。  Web地図の上では、断続的で、かつ、東西方位を乱しながら、総延長400~500程度は推定できていました。
  最初の発見は、「歩行者のみの踏切」でした。  このような残滓(候補)には興奮します。  年間、何人が横切るのか知らないが、「安全旗」が立てられているものの、簡易の遮断機もありません。 自転車は恐らく通る気になれません。  南約150mには正式の(S60年代には踏切番の居た)踏切があるのです。

踏切の残影


  これは、X=6/Y=6 の想定点からおよそ150m地点です。 そこから(踏切を越えて)、県道・美作線を越えて、300mぐらい続きます。 実質幅100cmほどで、用水(ドブ)を伴う部分や、畦道単独の部分も残ります。
  その先は、住宅地に阻まれて、突然道が消えるのだが・・・  続きは、稿を変えます。

再び 6進法? 12進法?

リアルタイムで書いています。

  人類全体で考えたとき、5進法/10進法が主流になったのはなぜでしょう?  6/12/60進法については、「1年がおよそ12ヶ月」 という、太陽と月 (と地球) との関係に支配されていることは明らかです。
  特に東アジアでは十二支や干支の概念に発展して、「時間」に関するものを12の倍数に求めたことは想像に難くありません。 「二十四節気」 というのもありますね。  西欧における、12時間/24時間の確立については、誰か教えてくださいませんか?  12ヶ月制を12時間制に引き写す必然性は少ないと思います。 占星術で言う星座/宿星を介すると、12ヶ月 → 12時間に 「写像」 されるのか?
  更に 「桁上がり」 した、12倍の144という数字はあからさまには出現していません。  東アジアで、5進あるいは、10進と融合してしまい、60進法に変身することは不思議です。 ひと月がおよそ30日という呪縛からでしょうか?

  いま少し話を拡散させるならば、空間についての偶数/奇数に対する感覚の歴史も解明したいところです。  一般的に、左右対称の思想はあります。  だが、それには、幅のない中心軸を置いて、右に四条、左に4条を置くのか、中心帯を確保して左右対称を狙うのかは心理的に違うように思われます。 「零」の概念の発想とも関係します。
  (東洋の)都の構造が偶数構造になっている一方で、「井田」 の構造に見られる、奇数構造は見過ごせないのです。
  チェス/将棋で、あちらが8X8、こちらが9X9 なのはなぜ?!

  さて、話を戻しましょう。 奈良期の記載によると、「6年に1回の戸籍調べ」が制度化されていたそうです。  他方で、その時期に「50戸」 を一つの行政単位に選んだという記載も見られます。

  「5と6のバトル」 とでも名付けておきましょう

古代人は6進法?

 尺度単位の起源

  今の世、度量衡標準はメートル法ですが、それでも、身の回りには、「尺」という単位は影を残しています。
ものの本によると、「尺」とは、拳を握って親指と人差し指を開いた形だそうです。 そのときの、指先の距離が尺で、本来は20cmに満たないのだそうです。
  欧米で、feetが足裏の長さに由来することは信じてよいのでしょうが、「尺」の方は何かのきっかけで、25~30cmほどに変わったと言われます。  後から、「肘の長さ」だと言われたり、逆に「尺骨」というコトバが付いたりしたという説も信じられそうです。

  さて、このような経緯を経て、身の丈=6尺が一つの単位になります。  「1間(けん)」という単位は、間口の幅や畳の長手の寸法として残っています。  このとき、「6」という数値は未だ特別の意味を持たないのでしょう。
  ところが、1丁(長さの単位)[100m強]が60間だと言われる頃から、「ん?!」の世界に入ります。 また、1里(長さ)[およそ4km]が360丁だと言われると、思考が、一層迷路に入ります。
  <ここでは、先年まで公認だった、明治期の制定に従います。 「町」を使うのを避ける理由は、後に判るでしょう。>

 古代の長さと面積の尺度

  「条里制」を調べていると、この問題にますます絡め取られることになります。
今、私が理解している範囲では、条里制における単位元には長さと面積の混乱(両用)があって、そのことを解きほぐしながら書くと;-
  面積の単位として(あるいは面積ごとの名前の接尾語として)、「里」があります。  「里」は6X6個の「坪」から成ります。  この「坪」は、後に述べるように、現在理解できるものとは別物です。
  次に、「段」(後の『反[たん]』に結びつく)と「歩(ほORぶ)」があります。  結論だけ書くと、「ひとつ歩」が現代の1坪に相当し、1間四角なのだそうで、360「歩」が1「段」で、10段が1町(この場合1丁四方=古代の「坪」)と、漸くリングが繋がります。

  混乱は暫く残して、長さの単位元に話を進めます。  長さの単位としては、長い方から、’里’と’丁’と’歩’があると理解してよいようです。  長さの’歩’は、現代の’間’に相当すると考えられます。  歩幅との関わりは今は悩まないことにしておきましょう。  1’丁’は60’歩’です。  詳しい内容を措くとして、現代の、1丁=60間のシステムと符合します。  また、1’里’は6’丁’です。
  どうです?  スッキリしたでしょう!!!

 古代の尺度まとめ

  1「里」は1’里’四方、1「坪」は1’丁’四方です。  1’丁’は60’歩’でしたから、1「坪」は60’歩’四方で、3600「歩」(現代の3600坪相当)です。
  距離の、1’里’は6’丁’で、1’丁’は60゜歩’で、1’歩’は現代の1間に相当しますから、1’丁’は現代の1町に概略で相当すると考えてよさそうです。  300「歩」と、360坪(現代)のちがいに、今は悩まないことにしましょう。  ただ、6’里’が現代の1里(4km程度)・・・ ここではズレが起きています。

  ここで、追い討ちをかけて;-
面積の1「段」は、標準的には、幅が12’歩’で長さが30’歩’を想定していると理解されています。  1’丁’の中に、幅の側に5枚、長さ方向に2枚の短冊状に地取りされるのを標準にしているのですね。

 このページのまとめ

  長さや面積の、古代ー現代の換算を、はじめからメートル法で書けばよいのに、しなかった理由は理解いただけますか?  つまり、一番根本の問題、1’尺’(古代尺)が何センチに相当すべきかが大きな問題なのです。
  多くの教科書では、往時の’尺’は、明治期に改めて制定された曲尺[カネジャjク]=30.303cmと理解しています。  それ以上詳しいことを論ずるのは意味がないという人さえあります。  このサイトでは、その数値を確定することも、一つの目的になりつつあるのです。

  明治期の曲尺は、幕末期の伊能忠敬の『折衷尺』=30.304cmに依拠すると言われています。  ただ、折衷尺という名前自体が、怪しいですね。  その通りで、忠敬が往時の30.256cmと30.367cmの中を採って制定したと言う伝説があるのです。
  ともあれ、両者の差は、300m当たり1.1mですから、微妙な差異ですが、もし笛を作ったら、600Hzの音が2Hzずれて、奇妙な音楽が出来上がります。

  古代尺と明治期の曲尺の差異は、それほど小さいものでしょうか?  古代から幕末(江戸幕府)まで、もっと様々な『尺』が存在したと言う記録はどう理解すべきでしょうか?


  混乱を避けるために、述べなかったことがあります。(05/11/17の追記)
  大宝律令以前の面積単位には、上で述べた 「段」 の類縁の単位で、別系統の単位 「代(しろ)」 が存在したと言われています。  今でも、「苗代」 のコトバとして残っているものです。  1「町」=6間四角=10「段」=3600「歩」 としたのに対し、1 「代」 =1.2間X6間; 1「町」=5「代」で、言い換えれば、1「町」を5分割したことに相当します。
  このあたりの実証は困難を極め、今考えている古代尺(小尺)に対して、大尺(高麗尺)が通用していたゆえだとする説があり、他方でそれに疑問を投げかける議論もあり、簡単には結論が出ません。
  
  現代人の知識では、1町=300坪で、上の記述とは違うなぁ という疑問も出てくるでしょう。 これは、「太閤検地」で、300坪を1新・町としたことによると理解されています。  デノミネーションですね。

先人の仕事 1

05/11/17記載
  いくら怖いもの知らずで突き進むとしても、この分野で先駆けて仕事をなさった先達を無視するのは間違っています。  つまり、それに捉われてはいけないが、全く別に作業するのは、無駄でもあるし、自然科学系の発想を持ち込むと言えども、無謀というものです。

  秋冷の半日を、岡山大学の中央図書館に、許しを得て籠もりました。  検索によれば、あからさまに、6種の書籍が発見されました。  多くは、40~50年の歳月を経ていて、書庫に納められています。  手に取って見るのに若干手数が掛かるので、まず、開放書架のものから調べ始めました。

  全国規模の研究は先に延ばして、岡山市・岡山県に関するものから着手します。  永山卯三郎氏の名前は、既に知っていました。  主として、大戦前に、倉敷から岡山に掛けて、大きな仕事をした方です。
  今となっては、現代の地形図技術や、発掘成果と照合してみると、大胆すぎる仮説も含まれますが、それは、今細かく議論するときではありません。  現地調べもなさっているでしょうが、膨大な文献調べをなさっています。

  新しく、石田寛氏、高重進氏の名前に接することが出来ました。  その業績については、今は詳しく論じません。 私とは、既に接点があったので、その因縁話を書きましょう。
  石田氏は、記憶を辿れば、年齢的には一回り半ほど上だと思います。  ご在職中に高名に接していたが、備後の某私立大学のスクールバスで、親しくして頂きました。  (私の)実績以上に丁重に接してくださいました。  我が親の世代に対する敬意をこちらに向けて下さったからです。
  高重氏とは、もう少し近い因縁があります。  直接のきっかけは忘れましたが、「鹿田の庄」の位置を比定する研究過程で意見を求められたものです。  わざわざ、畑違いの私の研究室に来られことを記憶します。  論文も頂きましたが、退職のときに、申し訳ないが、処分した鮮明な記憶までは残っています。  その、ご労作に遭遇しました。
  両先輩とも、今は簡単に会えませんので、往時の私に今のような興味が湧いていたら、もっと教えていただくことはあったと思います。

  三方とも、岡山市史、岡山県史の双方の、また片方の編集委員として名を連ねておられることも判りました。

  別に、ビッグネーム/ブランドに怖れを抱くのではないが、文字になったものを、時間を掛けて、丁寧に解読させていただきましょう。

坪境のチェック 1

  このページは、ノンリアル・タイムで書いています。  作業したのは記載日付で、アップしたのは丁度ひと月遅れです。

  里境の議論が進んでいない段階で、坪境に話を進めるのは乱暴なようですが、これまでの開発で里境の認定が難しくなってしまっているときには、その近隣の有力な坪境を仮認定して、里境を推測するのも悪いことではないでしょう。  ただし、傍証としての補助手段で、決定的な結論に導くことを急いではなりません。

  そのような手法の有効な例は、「岡山大学(津島キャンパス)北団地」 と呼ばれる地域と西方 (津島福居) との関係です。  この地域では、住宅地への転用が1970年代頃から緩やかに進んで、しかも大規模団地がなかったので、水路や畦道を程よく保存しているからです。

  ここでは、その内の非常に局地的な議論をしましょう。  昨日の記載の中で、「岡山大学の南北道路(銀杏並木)が里境候補として有力」 「かつ、その西端を認定する」 旨を示しました。  その根拠を書いてみます;-
  まず第一にすることは、福居一丁目地区に坪境のメッシュを見つけることです。  最初に眼が行くのは、この地区のほぼ中央を南北に走る水路付きの道でしょう。  その東西に、110m幅程度の平行線が認定できそうです。
  次に待ち受けている困難は「岡山大学・北団地」の西端のラインの理解です。  最初に眼をつけたラインと平行線候補を認めると、「西端ライン」 を坪境とするのは困難です。  「西端ライン」を南に進むと(西南隅)、クランク曲がりになっていることも気になります。  実は、この団地全体では、4~5箇所のクランク曲がりがあって、ある説では、軍基地防衛用の細工だとも言われています。  それにしても、クランク曲がりのもう一つの、短い(東寄りの)、南北線も約110mのゲージには適合し難いのです。
  ここで、私の少年/青年時代の記憶に戻ります。  このクランク曲がりの辺りは1950~60年代には「歩兵裏」と呼ばれていました。 その南(現在の薬学部敷地)に歩兵連隊があったからです。  さて、その「歩兵裏」のクランク辺りには、乳牛の小さい牧場がありました。  その敷地の傍らに、土地の人が通る細い道がありました。  クランク曲がりの道は、往時既に、乗用車が通れる道であったのに、牧場の柵の傍らの踏み分け道は不思議でした。  今は、軽乗用車が漸く通れる道になっています。  つまり、地図で見ても、クランク曲がりの中ほどに、長さ80mほどの「盲腸のような」南北道として残っています。
  この盲腸道を「坪境」と仮定すれば、最初に眼をつけた南北の坪境候補群と整合します。  更に、「南北道路」との距離(220m程度)にも無理はありません。
  この地域全体のゲージが110m弱であることを考慮すれば、これらの考察を経て、「南北道路」に関しては「西端説」が有力になるのです。

  ここだけを切り出して示すと、乱暴な、牽強付会の議論に見えるでしょうが、このようなものを積み重ねて、矛盾のない枠組み <ここ、メッシュの語呂合わせで、笑いどころですけど> を創り上げたいのです。

作業着手 1

  最初の作業

  敢えて、3週間ほど、時間を巻き戻しています。  さて、具体的に何から着手するかです。  例えば、
 0)過去の開発で、近隣に遺跡が見つかったか?
 1)纏まった地域に、格子状の道路・用水(構造物)があるか?
 2)信頼度の強そうな東西・南北基線が(仮の)認定できるか?
 3)複数組の、110m程度の間隔の、構造物があるか?
  <約「110m」とは、6丁に相当し、以後『ゲージ距離』
   と呼ぶことがあります。>
などを基に、一組の東西/南北ラインを仮認定します。

  <この稿辺りから、必然的にローカルな地名が出てきます。  土地勘のない方には申し訳ないが、できるだけ 「ランドマークとなる固有名詞」 を書きますから、ご判読下さい。  いよいよ重要な議論になってくると、東経/北緯の位置を書き添えますのでご容赦を。 >

  今考えている、「岡山市域北部(津島・南方遺跡を中心とする)」の例では、私は、先人の意見も参考にして、東西線として、「岡山放送(株)」南門前から「京山中学」南門前に至る約2km&岡山放送以東500mを選びます。
  南北線は、残存構造物の精度/確度が低いのですが、これも先人の意見も取り入れて、「岡山大学(津島キャンパス)」銀杏並木から「大供交差点(やや東)」の2km弱を選びます。  途中、「旧・萬町踏切(東端)」辺りを通過します。
  いずれのラインも、幾つかの補強要件を加えた検討を済ませています。  例えば、ラインの内部に、「長さは短いが、確度の高い残存物を指摘できる」/平行したライン(ゲージ距離)に有力な遺構がある。・・・ などです。
  例えば、「銀杏並木」には、有力な手掛かりがありません。  また、その東端を採用するか西端を採用するかで、以降の議論に15~20mの誤差が生じます。  現段階では、「岡山大学(津島・北団地)」の西(津島福居)に、遺構と考えれるものや古い社寺の伝承がありますから(別途記載)、それらを参考にして、「銀杏並木(西端)」を基準線としておきます。

  なお、次段の検討を経て、この仮認定に無理があるときは、迷わず別のラインを探査することとします。 第2、第3のラインについても同様です。

  ラインの呼称

  第2、第3のラインを探しに進みます。  この場合も、やはり、東西ラインには手掛かりが多く、南北ラインの認定には幾らかの困難を伴います。
  さて、探索の前に、ラインに名前(番号)を付けます。  代数学の座標の概念を借りて、南北線をX=m,東西線をY=n (m、nは整数)で表現します。  そのとき、最初に探し・認定するのは「里境」ですが、いずれ「坪境」に議論が進むのは予定されていますから、里境には、6の倍数の整数を割り当てます。  上で仮に設定した南北軸はX=0,東西軸はY=0 と呼びます。
  Y=-6,-12,-18,-24 のラインは比較的容易に認定できそうです。  この団塊の探査では、ゲージ=6丁 の長さは、通説に依って、109mを想定します。  細かい修整は、後で行います。
  Y=-6 のラインは、「トマト銀行本店」 から 「商大付属高南門」を経て、「尾張神社(東端)」としてよさそうです。
  Y=-12 のラインは、通称・「後楽園通り」 から 「旧・萬町踏切跡」を経て、「奉還町通り」 を抜けて、「帝神社・門前」、「関西高校」 に至る路を想定します。  このラインの多くの部分は、江戸時代の 「西国街道」 として重要な路だったようです。
  Y=-18 のラインは 「能登川用水」 の線としておきます。  同様に、Y=-24 のラインは 「大供二股用水」 としましょう。

  南北ラインの認定には、周辺事情をも加味して考える必要がありそうなので、稿を変えることにします。

道の探索 1

05/11/24 転記
  自転車での日々の行き交いに、新しいコースを走ってみます。  見慣れない路地裏を選びます。  日記風に書いてみましょう。  非常にローカルな地名を書くことになるので、土地勘のない方は、記載したランドマーク・ポイントを頼りに、Web地図などで確認して下されば幸いです;-

  05/11/05 天神町の「文化プラザ」に行く過程で、3日に走った里境の候補線路の写真を撮りました。  いずれ何らかの方法でアップしましょう。  更に、「番町」を経由して、江戸時代に侍屋敷に改変された(?)可能性を探りました。  特別の証拠は見つかりませんでした。
  以前から気づいていたことですが、この地域には、「弘西小学校」と呼ばれる古い市立小学校がありました。  つまり、「弘世(広瀬)郷の西端」の小学校の意味だと気づきます。
  <後日付記 弘西 だけで、ひろせ と呼ばせるのだとする説もあります。>
  行政の都合で、近隣小学校を併呑して「岡山中央小学校」と名を変えています。  地名/校名変更の悪しき例です。  今から1000年ほど後の人は、この小学校名を見て、「ここが岡山市の中心だったのだ!」と知るのでしょうね。
  帰途には、「岡北中学/JR法界院駅」の周辺の南北線や、「清心町・絵図町/スポーツセンター南」の南北線の上の路地を探索しました。  行き止まりが結構ありますが、3~5平米程の、誰のものか定かでない空間を伴っていたりします。

  05/11/03 岡山ディジタル・ミュージアム(ODM)に、ボランティアに出かける往路に、「京山中学南門」から「県営スポーツセンター」の北西の「武道館」に向かう、里境の候補線上(東西路)を走りました。  確信のようなものを得ました。
  地点(東経133.909789度/北緯34.680838度)の東西に断続的に、「畦道」と「水路」の名残が読み取れます。  しかも、この点から、北へ向かって、ガソリンスタンドのセメント貼りの敷地に、住民通行自在の「入会権道」があるのです。  このような、「自由通路/誰のものかわからない路地」 は、古道の残滓である可能性があります。

  この「入会権道」については、坪境の位置にはなく、「坪」を2分割する位置にあることが判ったので、今はこれ以上追及しません。[06/01/22 追記]

  そのような、もう一つの例は、鉄道の踏切です。  特に、自動車の通行は拒むが、歩行者の横断を「拒むことの出来ない」踏切は要注意です。  多くの場合、簡易遮断機さえも用意されていません。  意識的に自転車の通行を拒んでいる構造もあります。  踏み切りの隠し持つ、もう一つの「宝」は、古い・忘れ去られた地名を留めている例が多いことです。  

何を使って、何を調べるの?

<05/11/04 執筆開始>
  何を探すの(what)?
  全部の枝葉を取り払って、結論的に言うと、地形図の上に、およそ100~120mの正方形=格子(道・水路)模様を探すのです。  この列島では、到るところで見つかります。  更に、その6倍の600~700mの正方形が見つかれば次のステップに進むことができます。
  正方形は、南北の方位をほぼ正確に保っているものと、明らかに20~30度の角度を持っている例があるようです。  ズレ角度の極限は45度ですが、ズバリそれだと言えるものもありそうです。  角度のズレは、地勢的な影響だと思われますが、必ずしもそれだけではなさそうです。(05/12/11 補筆)  ここでは、ほぼ南北方位のものに限定しておきます。  限定する先験的な理由はありませんが、予備調査は、そうするのがよいと教えてくれます。  方位を保っている場合はかなりの精度を持っているようで、5~10度ずれている例はむしろ珍しいように思えます。

  作業が少し進むと、明らかな後世の道と古いものを見分けなければなりません。  たとえば、市街地近郊では、土地改良という名の「農地の交換分合」が数字に亘ってなされています。  それらの分別ルールは、幾つかのものがあるのでしょうが、作業を進めることで、創ってゆきましょう。

  何で(how)探すの?
  最も理想的なのは、現地を歩くことです。  しかし現実的ではありません。  都市部では、一万分の一の地形図が手に入れば有効です。  私の用意する秘密の方法は、WEBの中の地図です。  「数量化」して議論するときや、必ずしも土地勘のない人に指し示すときに有効です。
  筆記具の他は、30cm程度の物指しや電卓ぐらいは必要でしょう。  あとは、・・・ 一番大切なのは、好奇心です。
  好奇心は、時には、「夢の」世界へ連れて行くので、サイエンスには諸刃の剣ですが、矢張り必要です。  新しい発見をするには必要です。   あとで、先人が既に発見しることが判っても、落胆する必要はありません。  まず、自分を驚かさないような「発見」は説得力はないのです。

  で、何をしたいの(why)?
  何をしたいかは、人によって違うでしょう。  私は、このサイトの主宰者が今考えていることは、
  1)地表構造物で条理遺構を「再発見」する。
  2)これまでの発掘遺構と照合する。
  3)古代びとの、方位や尺度についての技術力を評価。
などなどです。
  4)遺構を保守する慣習、壊そうとする恣意、改変しようとする意識
などにも興味があります。

道にこだわる

<05/11/03記載>  
  「条里の道」を学術的に探るだけなら、私の生い立ちは全く関係ないかもしれません。  ただ、話を進める上で、「道フェチ」の度合いを理解していただくのが近道かなと思います。 暫くお付き合いくださいな。  

少年期
  小学生の6年になる前の、冬の季節に、自転車に乗れるようになりました。  (これ以上詳しく述べることは本質的ではありませんが、戦後の混乱期を乗り越えた少年ですから、ある事情で、5年生の秋までの小学生としての学歴が欠落しているのです。 言い換えれば、公的に小学生活を始めて半年ほどして自転車に乗ったのです。  ヤヤコシイですね。)

  ともあれ、乗れるようになって、中古の(大人用の)自転車を買ってもらった12歳の少年は、自分の棲み処の周りを走り回ります。  それは尋常ではありませんでした。  休日には、往復30~40km程度なら平気で、地図を片手に出かけました。  変な少年ですネ。
  どこへ?  神社仏閣・古跡が多かったようですね。 つまり、「さすらい」と「古代志向」がMixした、『あんふぁん・てりぶる』だったのです。

  歩くのも、嫌いではなかった・・・  けれど、歩くだけでは、距離が稼げない。  歩いたのでは、県境まで行ってその日の内に帰れませんからね。  実際、高校のときに、西の備後・福山市でバイパスが出来たと聞いて、行ってみたもので、東の県境近くで、国宝の塔婆が改修されたと知って写真を撮りに行きました。

成年期
  大学に進んでも、この傾向は変わりませんでした。  むしろ、少しずつ「系統的」になって行ったかもしれません。  ただ、神社仏閣に向かっても、まるで「信心」などとは無縁なのですけど。
  例えば、古いスクラップ帳を開いてみると、仏塔(五重/三重/多宝塔)や、土俗信仰(乳神様/疱瘡神という怪しいものまで)の名刺一枚の記事まで貼ってあります。

  子育ての時期には、就学前から、二人の男児には「長距離散歩」に付き合わさせました。  彼らが自転車に乗ると、片道40km程度のサバイバルレースに伴いました。  その後、彼らも成人になって、未だ感想を聞いていませんが、多分何処かで恨んでいるかも・・・

  ただ、上の息子には自転車道楽のDNAは出現したようで、下の息子はどんな子育てを実現するでしょう?

老年期を前にして
  その後のことを詳しく書くのはやめましょう。  特記すべきことでもないが、自動車のライセンスは持ちませんでした。  幾らか信念のようなものはあったが、それは今の主題ではありません。  ただ、結果として、足の裏で「道」を実感する(自転車で走っていても)ことには繋がったのでしょう。

  還暦直前に、以前から考えていた「お遍路(もどき)」を始めました。  土日遍路で、つなぎ繋いで、3年半で一応完遂しました。  在所からの往復はJRですが、歩きと自転車(平地は乗って、山路は担ぐ)で通しました。
  第二巡は、途中に死を約束された病を得て、幾らか回復して、いま進行中です。  いや、進行中は病のことでなく、お遍路がね。

  熊野道は、遍路に向かうより遙か以前から目標に掲げていました。  2年半ほど前に、真似事で歩きました。  この夏、入り口(口熊野)を探る旅[正味半日]を経験しました。  奥駆けは無理でも、中辺路は踏破したい。

  ささやかな遍路経験では、「道」を行くと、「道」の側から呼んで 来ます。  例えば、道を間違えて脇道に入ってしまったとき、「こちらだよ!」と呼んで来たことは何度もあります。  同じ到達点に向かうときでも、「こちらの方が宜しいよ!」と「道」が教えてくれます。

  オカルト的なことを言っているのではありません。  偶々、ヨーロッパ(イタリアの田舎町)を旅したときでも、東アジア人にとって迷路のような街筋で、「道」に教えられることはありました。
  難しげな意味づけをするならば、例え夜の星月夜でも、アスファルト貼りの一本の道の南側/北側は見たら判るものです。  田舎道でも二本の道で、どちらが人馴れしているかしていないか・・・ 道の表面に書いてあると言えます。
  サイエンスの裏づけを示すのは難しいけど、オカルトではないのです。  自分の「能力のようなもの」を誇示しているのではありません。  それが、「フェチ」の所以です。

  ここでは、「フェチ」を超えたサイエンスを展開する予定ですけど・・・。

サイト名の由来

極道 唄 命名の由来 
  私が「極道」になった由来は他に書きました。  いわゆる「理系」の仕事に40余年携わって、一方で、アート、とりわけ布や木や土石のクラフトに強い興味があります。  自分の手仕事・才能としては、そちらに向いていないから憧れる/敬服する気持ちに因るものでしょう。
  敬服する もぐら庵・池田耕治氏に 雅印=戯れ印 を彫ってもらったほどです。

    極道
    楽楽    
20051120115137.jpg


  それは、「道楽極楽」の文字を指定して、「楽」の字は、デザイン的に、対角に配置されることを予想していたのです。  さすれば、縦書きでも横書きでもなく、回転読みして「道楽極楽」になると意図を伝えておいたはずです。
  しかし、上のようなものが出来てきました。  これでは、「極道・楽々」です。  怪我の功名です。  あるいは、篆刻者の悪遊びかもしれません。  気に入りました。

  このサイトでは、私の腕のせいもあって、タイトルなどの主幹部分は自分で文字修飾ができません。  ほんとは、「極道の唄」でもなく『極道な唄』が主旨です。  「歌」ではなく、「唄」です。  わけの判らん爺が、御託を並べている、「曳かれものの小唄」みたいなサイトなのです。  05/11/01起案

上ッ道 <このB-Logのきっかけ>

@11月01日 23時リアルタイム記載のCopy

毎日紙によると、奈良(平城)の三つの南北幹線と目されるものの一つの遺構が実際に発掘されたという。

 え”?という感じがする。  未だだったの?!  なにしろ、このB-Logのターゲットとするのは、「道」の中でも、「条理の道(跡)」が主賓であるから、その親玉とも言える道であろうから。 そのようなものが既に解明されていないはずがない!

 ところが、更に、?!である。  三本の相互の間隔がおよそ2.1kmだという。 え? 教科書に書いてない! 書いてないわけではなく、これは、平城京の幅が4.2kmであることとを映しているらしい。
  けど、4.2kmで東西八条? 1条当たり525m? 素人としては心配になって来た・・・  1条が5丁?  6進法、60進法の世界はどうなったの?  1条が6丁(小尺)?  小尺は24cm程度?

 改めて、その南に広がる田園を眺める。  さすが、条理の故郷、109m程度の畦畔・水路が整然!  6区画纏めて広めの水路が画然! こちらは安心・・・
  もっとも、一方で、1丁=109mは幕末・明治期の物差しで、古代がそれだったことは疑っているのだけれど・・・

 ま、ゆっくり考えることにしましょ。

 この日の収穫(奈良盆地について);-
  1)三本の南北幹線道(跡)と想定されるものを地図上で確認。  かなりの精度で、南北方位を保っていること。
  2)南部に広がる田園の「条理跡」と思われるもののうち、東西3km弱程度続くラインを確認して、計測したところ、東西方位のズレは勾配で9.4/1000に過ぎなかった! [岡山市の平野部で10~20/1000程度] しかも、東上がり西下がりの「+」回転は共通?・・・

ご挨拶

ご挨拶

 私は、「道フェチ」 なのかもしれません。
 西暦二千五年神無月のある日、備前の国・岡山市の町の下に眠っている、「古い道」 のことが気に掛かり始めました。 これには、何段階もの、予兆があったのですが、それはいずれ詳しく述べます。
 ここで、「古い」 というのは、一応、律令制度が整えられた奈良時代を指すことにします。 このサイトの追究目的の出発点は、「人々の『道』の記憶はいかにして伝承されるか?」 というところにあります。 言い換えれば、
「道はどうして(why/how)道になったのか」
に興味があります。
 「奈良時代」 にも、当然それ以前の 「記憶」 が継承されているはずです。  が、「それ以前」 を立証するには、私がここで試みる手法では難しいでしょう。 手法とは、地表に残存するものから地下の遺構を推測して、発掘結果と照合することです。


** ヤバ系のタイトルに惹かれて訪問された方、すみません。**


わたし

 05/11/11若干追加
 今は詳しいプロファイルを述べるのは控えますが、私は、現場を退いた爺です。 現場?  宇宙物理学(計測学)を専攻する学徒でありました。 数万光年、数百万光年先の宇宙からやってくる微小・希少な 「信号」 を5年10年のスケールで待ち受ける実験・・・ と言っておきましょう。 あるいは、一人槍を構えて風車に激突するような時期もあったかもしれません。
 経済/経営学用語に「データ・マインニング」のがあります。  膨大な、ゴミとしか思えないデータの中から「金鉱脈」を探り当てようという・・・ 現代の錬金術ですね。  自然科学の中でその道を歩んでいたと言い換えてもいいでしょう。

 ここでも、そのような無謀な視座から、あるか ないか判らない 「古代びとからの信号」 を数理統計の技法を用いて読み取る試みをする積りです。


なぜ

 まず基本のところで、この列島弧に棲むものは、あるいは東アジアの多くの人々は、[仮に「漢字文化圏」といっておきますが]、平野部では東西南北の格子の中に住むことを当然のように思っていませんか?  ご訪問の皆さんは如何でしょう?  一方、西部ヨーロッパては、都会/城壁の中では、同心円構造を当然としている部分があります。
 その比較文化論はさておいて、古代の人達が道路・水路を東西に組むと決めたときには、現代の土木工学が想定できないほどに、正確な方位を保っているように思われます。
 天文学(天測学)の思想が現代人が想像するより深かったとしても、どのような「技術」に裏付けられたのでしょうか? 格子の寸法についても、恐るべき精度を持っているように見受けられます。 多くの例では、基本寸法は、約109mで、その上の基本寸法は654mとされていますが、その数倍(3~7倍)= 最大5kmの長さが維持されている例は少なくありません。
 これらのことも考え合わせると、漠然と「道はどうして道になったか」という素朴な出発点は、限りなく深い森に入ってゆきます。


 このプロジェクト(?)が具体的にスタートして、ひと月ほどですが、予備調査で、判ったこと(予断と偏見)は、
 0)古代人は6進法/60進法? 12進法?
 1)基本の物差しは?
  <曲尺[1尺=30.3cmを想定]より短いことはない>
 2)戦国~江戸期の構築物は、条理遺構を無視?
  <意識的に壊したかも>
 3)明治期以降の「公」構築物は?
  <条理枠より「膨張」させる意図があった?>
などです。
 それぞれ先人の研究成果があるのでしょうが、取り敢えずは、それを無視して進め(進み)ます。

ようこそ!

ようこそ!  『極道 唄』へ。  実は、急遽此処へ草鞋を脱ぐことにしました。 よろしく、お引き廻し願います。 前に草鞋を脱いだところへは3週間ほど厄介になりましたが、其処は技術的にハイクラス過ぎて、(はっきり言うと)、自分でタグを直接に書いた方が楽なのです。
  そんな経緯ですから、暫くは、時間を2~3週間ほど遡って記載しています。


   実記載日 20th Nov. 2005
プロフィール

ラスカル君

Author:ラスカル君
ブログ『極道』へようこそ!
予測を裏切る可愛い顔ですみません。
大昔、某私大の学生さんが、更に
20年前を想像して書いてくれた、
『Y教授の若い頃』

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