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前の書き込みでは、すこし粗かったようでう。 軽い表現をするならば、楽観的に過ぎたのでしょう。 どうやら、このペースでは執筆途中で、年を越しそうですね。
里線の間の距離は、当初予想したように、あまり正確に保たれていないのかもしれません。 ここで、「保たれない」 と表現したのは、2つの意味があるかも知れません。 第一は、歴史の流れの中で「保たれない」のであって、もう一つは往時の精度確保に関して、「保てなかった」のかも知れません。 ただ、もう少し、過去の技術や施行信念を信じましょう。 方位の精度を「保つことに」に関して、ひとかたならざる信念があったように見受けられるから・・・。
まず、(現代の)こちらが反省すべき点は、方位がわずかに傾いていることを無視した、粗い数値処理を施したことです。 傾いていることを無視したとしても、サンプリング格子点が、欠測点がなく、すべてのラインで(東西/南北ごとのグループで)同数採用できたときには誤差は薄められるかも知れません。
新しい数値処理法を考えるべきでしょう。
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具体的に作業を始めます。 この場合も、既に、「里境」 に関する、第一次の机の上の作業は05年10月下旬にほぼ終了しているのですが、リアルタイムの形で記述しましょう。
最初の検討課題は、
1)認定した候補線の直線度(揺らぎあるいは誤差の検定)
2)東西/南北 線間の相互距離の妥当性
3)(第零次として)得られる「1里」の長さ
などにあるので、有力なものでも、「坪境」 には注目しないで、東西線6本/南北線4本について、Web地図上で読み取ります。 交点のうち、4つは地表によりどころがないので、21点で調べます。
読み取った全部の生の数値を列挙するには膨大すぎるので、平均的数値を示し、代表的なもの、極端なもの、特徴的なものを記載しましょう。
まず、数量の定義と記号を示します;-
「揺らぎあるいは誤差」とは、数学的には『標準偏差σ(シグマ)』で表わし、一本のラインごとに本来同一値であると仮定した4~6個の測定値の平均値からのズレを示します。 扱う変数は、経度(緯度)角でも、距離に換算しても、数学的には変わりませんから、ここでは当面角度変数のまま扱います。 詳しく論じるならば、このレベルでは、「東西(南北)線は傾いていない」過程から出発するので、「過大」な値が得られることは承知しているものとします。
次に、里線間の距離を考えるときには、上で述べた距離に換算する前の角度情報(の平均値)に関して差を取り、その後、必要に応じて実距離に直します。 このとき、「里線間距離の平均値」 を取るときは、注意を要します。 つまり、(A-B)+(B-C)を求める過程で、Bの情報が消えてしまうからです。 議論に応じた、最適の処理があるのですが、今は取り敢えず、基準ラインからの線間距離で表現することにします。
休話閑題ですが、問題にしているのが我々の作業時の誤差でなく、施行時の「誤差」ならば、ラインの引き方に大きく依存します。 例えば、基準点から東西、南北に、1里ごとに 「点」 を順次に作ってゆく距離主体の手法ならば、縄の長短や測り手固有の癖などは、一方向に累積する傾向にあります。 天測などの、方位角主体の手法ならばまた考察を変えねばなりません。
さて、数理解析の結果を示します;-
4本の南北線に関しては、経度から133度を差し引いた値0.906~0.927 程度の値を扱います。 得られた標準偏差 σ は1/10000~3/10000でした。 少し乱暴ですが、4つの標準偏差の「平均値」は、2.5/10000 度でした。 経度の 1/10000 度は、11m 程度です。
また、6本の東西線に関しては、緯度から34度を差し引いた値0.656~0.687 程度の値を扱います。 ここで得られた標準偏差は 0.3/10000~2/10000 でした。 6つの標準偏差の平均値は、1.7/10000 度でした。 緯度の 1/10000 度は 9.1m 程度です。
ここまでだけを纏めると、傾きまで含めた「揺らぎ」の値が、長さに直して20~30mということは、充分小さい値なので、議論を先に進める意味がありそうです。 余り厳密に考えても意味がないことですが、東西線の「揺らぎ値」に較べて南北線のそれが大きめなのは、南北里線候補の認定に難渋した(地表遺構が乏しい)ことの反映と考えられます。
里線間距離に関しては、注目する里線の標準線からの距離を考えます。 距離は、上で得られた緯度(経度)角度値[里線毎の平均値]の差から換算し、「1里」当たりの m で示しています。ます。 里線は、今まで使っている記号番号を用いるものとして、次の表のようになります。
+6X 635.3m +6Y 628.2m
0X - 0Y -
-6X 662.5m -6Y 665.9m
-12X 621.9m -12Y 661.1m
-18Y 664.8m
-24Y 658.1m
この「里線間距離」は当初の期待では、650m前後の値になることが予想されています。 得られた値は誤差が大きいようにみえますが、「里線の方位が傾いている効果」や「里線の直線揺らぎ」などからもたらされる誤差を考慮すれば、取り敢えず満足できる範囲にあると言えそうです。
強いて言うならば、-12X のラインについては、基準線に選んだラインから「約 1244m 西にある」と算出されたので、仮に「1里=654m」のゲージを採用するときには、50m以上の不足となり、注目しておく必要がるかも知れません。
===
-12Xのラインについて、Web地図上で読み直しをしました。 転記ミスがあったようで、修整の結果、「1里」 相当長さとしては、639.6m が得られました。 正確に言えば、此処を修整すると、前段で書いた値も2~3桁目が僅かに修整されなければなりませんが、ここは「零次」のトライアルですからご容赦願います。 (06/01/01 追記)
四方山話の中で、「直交するラインをいかに作るか」を話題にしたら、たちどころに、「ピラミッド」の例を教えてくれる人がありました。
つまり、縄のコンパスを用意して、『菱形の対角線は互いに直交する』原理を使うのだそうです。 具体的には、南北線が先に作られたとして、その上に、例えば15m離れて、2人が立ち、A助を中心に10mの縄で円弧を描く。 同じくB弥を中心に円弧を描いて、得られる二つの交点(間隔は13m程度?)を結ぶ直線が東西を示す。
話は飛ぶが、NHKと岡山ディジタルミュージアム(ODM)共催[岡山会場の場合]の『新・シルクロード展』の展示物の中に、『天地創造の二神』の布帛図がありました。 二人神は、それぞれ、差し金(曲尺)とコンパス(二股コンパス)を分け持っていました。 制作年代はうっかりと、記憶していません。 同じアナログ世界でも、イザナギ・イザナミの「おどろおどろ」のハイパー・アナログと較べると、すきっとしたアナログで面白いですね。
暫くは、結論はおろか、思考の道筋も付き得ない、思いつきの夢を書くことがあります。 ご容赦あれ。
東西/南北線などの「基準線」の設定に関して、最近まで、筆者が机上思索したり、実際に歩いたりして考えてきたことは、原則として昼間に、平野から山などの固定目標物を見上げて作図することでした。 若しあるとしても、あえて夜間を選んで(北辰との関係で)山腹に松明を焚いて、下から望むことでした。
山上(高み)にいるデザイナー(プランナー)が、地表に対して指示を出していたとすればどうでしょう? 昼間なら手旗を使いますか? 狼煙(のろし)? 簡略に、稲わら/萱/草 を焚きますか?
地表での相互修整作業? 夜なら松明、昼なら稲わらの発炎筒を持った50人ほどの男衆が、一丁毎に、ワイワイガヤガヤ言いながら整列していたら愉快ですね。 微高地の役回りをGETしたひと、湿地の足場を与えられたもの、100余mの「なわ」の両端を引きながら東奔西走する2人の男(女?)、・・・
それにつけても、2つのことを思います。 ひとつは、あれだけの精度で方格を構築した「執念?/義務感?/職人魂?」は何なんだったのだろうか?
また、オカルティックな言い方だが、その時代の人が、未来びとに対して、書き遺した「挑戦状」なのだろうか? <「『渡来人』伝説」=「異界人/宇宙人説」に逃げ込む積りはないけれど。>
現代に「縄目石」と呼ばれる石が地表に残っている例はあるようですし、畿内の何処かでは「里」の隅地に「小さい古墳(一族墓)」があると主張されている学説もあるそうですが、一般的には小さな「マイルストン」が置かれたのでしょう?
使われた「縄」はどんな素材だったのでしょう? ここはリアルタイムで書いています。
昨宵、元職の仲間との宇宙・核物理学のゼミに参加して、帰途、北辰を探りましたが、生憎と曇りでした。 その夜を経て、明け方に見た夢は、
「彼ら」は、どんな 「縄」 を使ったのだろう? ということです。 「畷/縄手」の地名が散見されるように、「なわ」 を用いたのは確かなようです。 そうすると、ここでも、精度の問題が発生します。 絶対精度と、利用者の習熟度による精度と、天候・環境に依存する精度です。
最初には、「藁縄」つまり、稲藁を素材とする荒縄を考えます。 入手の容易さ、限りなく安い、製作容易・・・ などに因ります。 麻縄、木綿縄などを考えるとしても、西洋のザイルのタイプは想像しにくいものです。 棕櫚縄を考えたりしますが、全国規模で考えると、一般的かどうか?
これに関する文献/実物は議論されているのでしょうか?
さて、稲藁縄を手に入れるのは、相当困難なので、手元にある園芸用の棕櫚縄を使って、実験してみることにしました。
1)1m程度の長さの場合、竹尺と比較して、再現性精度はいかがか? 緩やかに張った場合と、極度に張った場合。
2)新品を水に濡らした場合、最終的に縮むことが予想されるが、最初伸びるのかどうか?
3)湿潤、乾燥を繰り返したらどうなるのか?
結果は、後ほどリポートしましょう。
かなり前置きを書きましたから、いよいよ、数理解析に移ります。 実際には、粗いサーベイは12月上旬に済んでいますが、ここでは、作業過程をあえてリアルタイムのように書いておきます。
つまり、最初は、既に示した「里境線の候補」だけを対象として、Web地図上で、メッシュの交点の位置を決めてゆきます。 そのとき、既に記したように、直接に「位置(空間)座標」を読む前に、最初は、緯度経度で読み取ったままの値で表示しておきます。
各南北里線/東西里線について、最小自乗法の意味でフィットする直線(「平均直線」と呼ぶ)を求め、正方位からのズレを読み取ります。 また、一本の里境について「平均直線」からの各交点のズレの標準偏差を求めて、データの揺らぎ(今残っている道 and/or 用水のウネリ)を評価します。 この経過で、もし、地図上からの読み取りに著しく不適切なズレが発見されたら、周辺事情を良く調べて、修整を施します。
第2段階として、緯度経度データを位置(距離)データに置き換えて、里線相互の平均距離が適切な値かどうか粗くチェックします。 位置データに置き換えるとき、今は、位置の絶対値は問題にしないで、位置の差=距離だけを問題にするので、座標原点は適宜に選ぶことが出来ます。 今は、東西/南北の里境の基準線(X=0/Y=0と名付けたライン)の交点(つまり原点)を基準にします。 この点の設定自身が誤差を含みますが、その影響は今は無視します。
この段階では、有効数字2桁程度の検査を目的とし、細かい追究は避けましょう。 早い段階で「理想的な」形を目指して、修正を重ねるることで、里線やそれらの交点の選定に、著しい恣意が入るのを避けるためです。
具体的には、里線間距離の平均値が、広く言われているおよそ654mの値にどれほど近いかを調べてみるわけです。 また、各々の里線間距離の平均値からの揺らぎがどの程度かも評価します。
明確に指摘できる「坪境候補」の代表的なものにも、以上に述べたことと同じ作業を適用する予定ですが、それは別に述べます。
===
解析結果の具体的数値を示します;-
既に付けた座標番号(この、里境の場合6はの倍数)毎に、「平均直線」の傾きを表にすると、次のものが得られます。
これを見ると、 であることに驚かされます。
次に、里境間の距離の代表値だけを示します。
・・・が判ります。 執筆中
あまり細かい話を書くと、論理を捻じ曲げる意図ありと疑われかねないのを承知で、書かずに居られないのが「道フェチ」の性[さが]というものです。
「気になっている・・・シリーズ」の続きとして、100mにも満たなくても、気になる「道」を挙げてみます。 読み進んで判られるように、「消された道」=新しい構造物で覆われてしまった(短い、短い)「負の」道についても記しています。
一つは、商大付属高校(旧・吉備商)キャンパスの西南の隅のブロック塀に貼り付いたような長さ約80mの南北道です。 この道は北西方向から線路(津山線/山陽本線)を越えて東・南東に(表駅側に)向かう歩行者や自転車乗りに、「小さい徳」を得た気分にさせる小径です。 北方面は、国道53号に覆われてしまったのは明瞭です。 それ以外、南にも北にも延長線上には道らしいものはないのです。 けれど気になる小径です。
話を変えます;-
適切な、判りやすい、ランドマークがないので、結論から先に書いてしまいます。 X=-12のライン(南北里境)は、南の方は、別に書いた「状況証拠」が認められるのですが、津島界隈では、旧・元・新の3本の53号線に分断されて不明瞭です。 今述べる道はその北限にあります。(坪境候補の条件を備えた東西道と T 字接続しています。) 明誠学院(旧・真備女子)の取り付け道の入り口付近の東30~40mに、長さ約30mの「入り会い道」があります。 これは、丁寧に辿ると、300mほどは南進可能ですが、「座主川」を越え切らないで、南には京山・萬成山に阻止されます。 北は、直に、半田山の地形の影響を受けています。 この小径は、そのラインが里境であるとした「状況証拠」の一つです。
筆者の経歴について書いてしまいますが、まず、小学校の5年生の数ヶ月を岡大(津島キャンパス)の中で暮らしました。 その後、学生時代と通算して、47年間の昼間を同じキャンパスで過ごしました。 その経験・体験の中で、郷人の「入り会い道」の伝承を聞いています。
岡大・津島キャンパスで「北団地」と呼ばれている地域には、今では、北に向かっては2つの開放口があります。 一つは「北門(開かずの門)」で、「潜り戸」が開けられて、自転車以下に原則24時間通行を保証しています。 もひとつは、「通用門」で、自動二輪車の通行は謝絶していますが、現実には阻止できてないようです。
この道には、敗戦後4年間ほどの連合国軍による接収時期のことは不詳ですが、帝国陸軍の時代に「入り会い(権)道」であったと伝承されています。 道は、今は、通用門から200m南進できて、後はキャンパス内を自由に通過されています。 道には、1m程度の幅の用水が付いていて「座主川」に繋がっています(いました)。 筆者の記憶に間違いがなければ、この道&用水は二つの弾薬庫の人工土塁の間を横切っていましたから、明治40・41年以降の歴史を顧みるとき、「恐るべき道」です。
道は、今では、キャンパスの中に拡散してしまっていますが、用水は、暗渠/トンネルとなって理学部本館の下に存在しています。 水位の関係で、年に1~2回しか導水されない化石の用水です。 北側には既に農地はないが、用水は埋めることは難しいのです。
さて、勿体ぶりましたが、小さい結論です。 この通用門はX=+1 のライン上にあり、南に伸ばすと、「商大付属に貼りついた」80mの小径に繋がり得るのです。
<昭和5年(1930年)の市販地図の記載を信じるならば、このラインは西の工兵隊敷地と東の歩兵兵器調達所の境で、公道であったように表現されています。 [06/02/08 記載]>
[06/01/08 追記] 明治31年(1888年)の陸軍地図では、この「入り会い道」は、明確に、用水付きの主要道として記録されています。 この道は、幾つかの直角の屈曲を経て、約1.5km南下し、今の「山陽本線・平畦踏切」に到達します。 その間、「坪境」の上を離れず歩くことになりそうです。
踏切から南は、幾らかゲージが乱れますが、今の裁判所敷地を衝き切って、900m南下したところで、Y=-12 の東西ラインに到達します。 この到達点(交差点)の西と南は、江戸期の「西国街道(山陽道)」でした。 つまり、西から来た旅人は、岡山城域を避けるために、この「点」で南下させられたのです。 ■
別の例では、X=-6の里境ライン候補を探していたときに遭遇した例です。 運動公園の西の南北道がそれに相当することは直ぐ気づきます。 この道を南下することで、その西端に注目するのが良かろういうことも理解できます。 ところが、ラインは今の町名・伊福町三丁目辺りで自信を失うのです。 失った地点、「観音用水」の北西の岸の不思議な町並みについては、この用水が45度の方位で流れていることと関連して他で述べましょう。 その南は、文字通り紆余曲折を許せば、「寿町」辺りまで線が読めそうです。 が、「石井小学校」が行く手を遮ります。
そこに一本の道が隠れています。 つまり、校庭を突き切れば、「昭和町」と操車場でで二度途絶えますが、大供近辺まで続きます。 話がそこで終われば何のことでもありません。 石井小学校まで足を運んでみると、・・・ 道が途切れたところには立派な門と鉄扉が残っていました(多分開かずの門ですけど)。
読者の皆さん、どんな ご感想ですか?
南北に流れる用水について検討します。
その前に;-
これまで、あまり強く書きませんでしたが、里境の候補を選ぶときに、現存する東西の用水が注目されます。 Y=-12 のラインを示唆する「能登川用水」と、Y=-18に相当すると思われる「大供・三股用水-野田用水」です。 「座主川(用水)」が Y=+7 と Y=+1のライン上を流れていることは既に指摘しました。
一方で、これまで見てきた地域では、水の流れに、北東から南西に降る傾向があることに気づかれると思います。 たとえば「観音用水」などは、殆んどの部分が、方位45度で流れ降ります。 運動公園の東南の隅辺りで、400mほど東西流を示しますが、かえって不自然な印象です。 この「不自然な」部分は、Y=-4 のラインと読めますから(恐らく間違いではない)、皮肉ですね。
運動公園や岡山大学敷地での発掘事例では、何度も「斜めの」自然河道が確認されていますから、幾度か自然の摂理に曝されてきたのでしょう。 話のついでに、この自然氾濫と条里施行との後先は詳しい検証が要りますが、この「観音用水」の流路と「岡山大学銀杏並木入り口」西部から並木道東部の「旧・北富(きたどみ)=学南町二丁目」にかけてのの町並みの乱れを見るとき、条里施工後の大きい氾濫を見る心地がします。 なお、「北富」は、明治28年の旧陸軍地図(1/20000)でも既に集落が固まっていますが、道&水路は今のように乱れています。
話が長くなるのを怖れずに書けば、伊福町三丁目の「観音寺用水右岸」の町並みの乱れも、自然被災の遺構でしょうか? 地元の伝承を聞きたいものです。
さて、前置きが長くなりましたが、南北に流れる用水の話です。 誰でもが第1に注目するのが「西川-枝川」のラインでしょう。 この用水の市街地部分は、X=+2ラインの上にあると考えるのは自然でしょう。 ただし、岡山に城下町が形成されて以来、現近代まで、幾度も改修されているのは明らかなので、扱いには注意を要します。 とはいえ、2.5km程度に亘って、かなり正確な南北の直線が保持されているのは驚異的なことです。
この場合でも、「春日町」を南に越えた辺りから、急に方位を失うのは、古い海岸線の影響とはいえ、皮肉なことです。 「鹿田の荘」やその周辺の道路&水路を比定することは、「岡山考古学」の悲願と言えるでしょうが、この辺りの地形学・地質学的複雑さと恐らく自然氾濫の影響に阻まれている感じです。
典型的な南北流は、これだけはありません。 手持ちの地図が、国土地理院の1/10000であるなら、『岡山』の南の『岡南』にも誓えるのが良いかもしれません。 JR大元駅の西の地域の南北用水では、東側から、「相模川」、「今・大野用水の支流(?)」、「今村用水」、「中仙道長川」が主なものです。 これらは、ほぼ「110mゲージ」に乗りそうですが、この辺りでは、古い海岸線の影響を負っていること、道路の方に近代の加工が激しいことの2つの理由で、今は深追いしないでおきます。 悪いけれど、今、主に考えている地域の議論の補強に使う、隠し球に残しておきましょう。
先にも述べましたが、「踏切」は歴史の化石です。 大袈裟に言えば、「踏切」というのは、鉄道敷設という 「巨大な力」 に対する先住民の抵抗の証しとも言えるのです。 言い換えましょう。 「インフラ」の錦の御旗勢力が、原住民に与えた、ささやかな 「自治区」 みたいなものです。
Web地図上で作業しているときに、「究極の踏切」 と名付けたい代物に行き当たりました。 聊か強引な論議と思われるかもしれないが、お付き合い下さい。
岡山駅と付随する操車場による疎外を補償するために、「南北(東西)連絡道」を設置している例は、新しいものまで含めると、10本程度あります。 そのうち、1960年代以降にマイカーブーム対策として車主体で建設されたもの4本を除くと、高架橋(歩道橋)1、駅付随の地下道(歩行者専用)1、2輪車以下 3、小型自動車許容 2 (その内1本は20世紀末に巨大地下道に改修)となります。[この辺り、一部字句修正06/02/06~09]
高架歩道橋は、気動車区(庫)の近くにあり、これは東西ライン Y=-9 の上にあると理解できそうです。 駅付随の地下通路は今回は問題外とします。 「野田地下道」は古くは自動車の交互通行で、その北入り口は、X=-17 のラインの東・約20mに位置していましたが、明らかに X=-17 のラインから流れ込んでいるのが認められていました。 今では幅員が拡げられ、結果として、X=-17に載りました。 X=-25 に比定されるラインには、恐らく軽自動車以下のために地下道があります。 古い昔に利用しただけですから、現地踏査の必要があります。
2輪車以下のための3本について、北(東)から順に見てゆきます。 第1は、1960年代半ば頃まで 「萬町踏切(開かずの踏切)」 と呼ばれていたものの代替物で、この踏切の東西ラインは、江戸期に 「西国街道」 と呼ばれていた重要な道(180号線の始原型)で、Y=-12 の「里境」 であることは間違いありません。 第2のものは、駅本体と操車場領域の間あたりを方位45度で潜りますが、この北入り口は X=-5 のラインに繋がっていて、このラインの補完物であることは明白でしょう。
筆者が特に注目するのは、第3のものです。 これの北入り口は、現在の町名で言えば、東に 「島田(本町)」、西に「高柳」を見る地点にあり、昔の機関区辺りをほぼ南進します。 この地下道を1/10000地形図の上で見つけたとき、大仰に言えば震えが止まりませんでした。 当時(05年11月初旬)、X=-12 の「里境候補」 の認定に難渋していたからです。 この入り口ポイントに気づいたとき、この 「里境」 像が完全に見えてきました。 単に、ゲージとして合致するだけでなく、1/10000 の地形図(国土地理院)によると、この道には「大字(おおあざ)界/村界」が記入され居り、操車場を越えて南にまで繋がっているからです。
この地下道は、今のように「条里遺構」を意識する遙か以前に、一度だけしか利用していませんから、詳細は現地に行ってみなければなりません。 また、「大字界」は小学校区の境である可能性もあるので、教育委員会に足を運ぶ必要もあるでしょう。 後日(06/02/09)足を運んだら、初見でした。
「究極の・・・」 と名付けたには、こんな物語を秘めているからです。
このところ、「哲学的」というほどには深くないが、心理学的な思索に更ける時間が増えています。 街中に出掛けると、古代びとの目線で風景を眺める日が多いのです。
『条里メッシュ』の設計・実施者に、それほど詳しいマニュアルがあったとは思われませんから、「現場」 で判断しなければいけないことが多かったと思います。 列挙してみます。
1)方位の設定 2)基準線の決定 3)基準線の調整・・・
などなどです。
筆者としても、多くの設計が完全な更地で行われたのでないことを忘れているわけではありません。 それまで数百年か、それ以上の耕作歴のある上に描かれ、既に「持ち主」があったに違いないので、その力を無視して実施されたとは考えません。 様々の 「力関係」 をねじ伏せることは、中央にも、現場にもなかったと思われます。 また、学説の中に、「メッシュの発生」 は各地で(有力者に依って)自力でに行われ、「大化の改新」などはそれらの調和を図ったという考え方まであることは知っています。
方位のことでは幾らか書いたし、乱暴な『仮説』モ掲げてしまったので、措くとして、「基準線」 は解決を要する問題です。 つまり、実施者が地方勢力であれ、中央権力であれ、平地の上に一本の線を引くには、強い意志が要るからです。 既に耕作実績があれば抵抗を伴うし、実績がなければ英断を要するのです。 自・他双方を説得できる強い根拠を要する作業です。
具体例で書きましょう、今語っている「津島地域の南北線」でいえば、先達・石田寛氏の文章に依ると、「『半田山の中央部の窪み』と北極星を結んだ」 という、提示がされています。 実験屋の筆者の感覚としても、『どこかの山頂』 よりも、『窪み』を選ぶことの方が実質精度において真実味を感じさせます。
しかし、この仮説には幾つかの困難があります。 小さい峠点は、地形図上では、東経113.92012/北緯34.69572 と読み取れ、運動公園辺りでは、「基準線候補」 の約32m東になります。 実際に歩いて平地から見上げてみると、40mほど東に位置しそうにさえ見えます。 念のために 「約100m東!」 に進んで見上げましたが、問題になりませんでした。
日を改めて、X=-6 の候補ラインの上に立って、半田山に拠り所を探しました。 手掛かりはありましたが、「窪み」は余りにも小さくて、説得力はありませんでした。
半田山(針田山)には、更に2つの気に掛かるポイントがあります。 一つは、平安時代に「山陽道」が半田山を越えたと伝えられる「峠」です。 X=-10~11 辺り(津島小学校裏手)に存在しますが、平地から南北透視したとき「峠」と認識されないので選ぶことはできません。 今ひとつは、式内の村社「尾治針生若比(オジハリナマワカヒメ)社」です。 これは「針田山」の守護神で、秦氏を名乗る集団の氏神だと考えられていますから、興味深いのですが、今は山腹にあって平地から直視できないのが残念です。 位置は、ズバリ X=-11 ライン上。 <岡山市史などによると、この社は「尾張神社」(伊福郷にある)と並べて、上の尾張神社/下の尾張神社と呼ばれる時期もあった由です。 因みに、下の尾張神社は、(X=-9,Y=-6)のポイントに隣接しています。>
現在のところよい思いつきはありません。 かくして、古代びとの目線に立ちながら、悩む日々が続きそうです。
手品の種明かしを先にするようで、いささか気が進まないのですが、今日は休日にも拘らず、桃太郎スタジアムの下で資料調べをしました。 その結果、「津島郷」と「伊福郷」とを南北に隔てると考えられる「郷境」(場合によっては「里境」より半ランク上か?)、つまり、今想定しているX=0の東西線の発掘成果について、4ポイントの詳しい情報が得られました。
経緯度の諸元は、あえて後に稿を改めて書きますが、3つのポイントは運動公園内にあって、西から旧・軟式球場のトレンチT13、旧・練習トラックのトレンチT11、それと新・桃太郎スタジアムメインスタンド下T10です。 第4のポイントは、「万成・国富線」設置に関して調査された「北方藪ノ内遺跡」です。 これらはかなりの精度で、一直線上に乗ります。(東西方位も正確です)
T10 の溝も、藪ノ内の溝も、「大溝」 と呼ぶに相応しい幅を持っているようで、幾らかの崩壊を含むにしても、最大で12m(!)に達する模様です。 これだけ大きくなると、「道と溝」 は 「60間あるいは360間のゲージ」 に内包されるのか?、外付けされたのか? の議論が必要になりそうです。 <近現代になって改修が繰り返されたであろう「座主川」の例でも、幅は、目測で4~5m程度です。>
発掘時期の考察では、この大溝も9世紀ごろまでに埋められたようで(部分的に?)、その後は道としての機能したと理解されているようです。
なお、運動公園(旧・錬兵場)に覆われることなく、現存すると推定される道(地表遺構)は用水を含めて、東側が5m程度、西側が3m強と概算されます。
実際の思考/作業過程は12月の頭に、既に、進行しているのですが、リアルタイムで書きます。
「里境候補」 については、殆んどを11/07付けの記事で書き、11/24にも考察しました。 数値的な検討経過を示す前に(粗い作業は済んでいますが)、重要な意味を持ちそうな 「坪境候補」 の検討について述べておきます。 (一部分を、既に、12/xx付けや昨日の記事で書いてしまいました。)
先人達も指摘されているように、「道路」 は様々な要因で付け替えが行われ、それに対して、「用水」 の変更は困難を伴います。 つまり、用水の方が昔の姿を留め易いのです。 「里境候補」 に関して、能登川用水/大供・三俣用水 が躊躇なく選定される所以はここにもあります。 (今直ちに、これらが里境であると強く主張するものではなく、坪境に格下げされることを先験的に否定するものではありませんけど。)
さて、第一に注目したいのは、「座主川用水」 です。 現在、この用水は岡大(津島)キャンパス辺りでは東から西に、約1.7km流れ、3度の屈曲(ほぼ直角曲がり)を含みつつ南下して、4度目の屈曲の後は西に向かって1km弱走ります。 最後は、岡山商科大学と京山中学の間を行きます。 これらの屈曲点の距離を(一部分修整して)読み取ると、約109mのゲージが浮かび上がります。
しかも、岡大キャンパス辺りの東西線は、Y=+7 に相当しそうです。 最後の部分の西行は、Y=+1 に相当するとしても無理はありません。 これらの二つの東西流の間隔が 「1里」 になっていることは、偶々のことなのか否かは、多いに気になることです。 つまりこれらが、共に、 「里境」 である可能性が残ることについては、今は議論を避けましょう。
なお、この Y=+1 ラインを東に伸ばすと、地図の上にもクッキリと、「踏み分け道」 が認められ、銀杏並木の入り口(「岡大入り口」)の辺りで一旦消えます。 (この消滅点辺りは、古い自然河道の影響を残しているとも言えそうです。) この地点より東にも、道・用水を見つけることは不可能ではないようですが、今はここで議論を止めておきます。
南下部の長い部分(長さ4坪分)は X=-9 のラインとしておきます。
なお、筆者は、1950年頃の岡大辺りでの座主川の姿が自然な小川であったことを目撃・体験しています。 河道は、1960年ごろに、大きい変更なく、コンクリート擁壁で固められました。 現在の幅は、目測で、4~5m程度です。
05/12/21 リアルタイムで書いています。
11/05 付けで、「気になる小道」、「不思議な小径」 について書きました。 中学生活は岡北中学(岡山市立)で過ごしましたが、この学区には在学中から気になっていた 「小さい道(細い道)」 が少なくとも2本あります。 いずれも、JR 津山線とほぼ平行に走る、つまり、南北道です。 結論を先に言ってしまうと、いずれも 「坪境」 の名残と考えて間違いないと思います。
1本は岡山放送(株)の西に接して、そこから南に約550m走っています。 単車さえ通るのが難しい道で、本来、歩行者専用道として連綿と生き残っています。 経緯度で表示すると、133.92337/34.68188 から始まって、133.92353/34.67809 に至ると読み取れます。 この道は、私の少年時代には、田圃の畦の踏み分け道でした。 ただ、農作業に関係なく里人が堂々と通る不思議な道でした。
「岡山放送」と、その北の「子供の森」は元の県・農事試験場の跡地ですから、この「西に接する」道は北へも伸びているのですが、この辺りで微妙に乱れています。
もうひとつは、津山線の東の道で、約300mあります。 経緯度で書けば、133.92589/34.68115 から 133・92587/34.67914 で、この場合の北端は、「岡山放送」南門前を東西に走る「里境候補線」から始まって、3本南の坪境を推定されるライン近傍で JR 山陽本線に阻まれて消滅しています。(強引に引けば、更に約100m南下できます) この道も、実質の道幅は1m強で、単車・自転車の通行も困難ですが、閉ざされることなく生き続けています。 一部分は、両側をブロック塀で固められています。
これらの道は、『岡大(津島)銀杏並木』から、それぞれ、約330m、550m東に位置していますから、「メッシュ座標」 に当てはめると、X=3、X=5 の 「坪境候補」 になり得ます。
05/12/21 リアルタイム記載。
「条里制」 だけに絞った刊行書(単行本)は、必ずしも多くありません。 大学紀要に納められた膨大な単発論文は多いのですけど。 あっても、古いものが多く、市場で手に入れることは困難です。 このたび、Netの中で、2冊の本を見つけて、手に入れました。
瀬戸内では、このところ、広島・山口が降りましたが、岡山以東は積もるほどではありませんでした。 日中でも風が強く、野外調査には不向きな季節なので、本読みと Web 地図の中の 「現場調査」 に力を入れましょう。
手に入れた本は、落合重信 「条里制」 吉川弘文館[1977年初版/1995年新装版] と 中野栄治 「紀伊国の条里制」 古今書院[1989年初版] です。
前者には図書館で2時間ほど眼を通しましたが、今回はいずれも、まだ、読んでいません。 主な取り扱い地域は、前者は神戸を本拠地として京阪奈が中心で、後者はタイトルどおり和歌山が中心です。 軽々に比較してはいけないが、時空間の広さにおいて、初心者にとっては、前者の方が参考になる部分が多いように思われます。 参考図書引用の多さに関しても、後進には助かりましょう。
ここでも、作業日付にあわせて記載しています。 執筆は、05/12/28。
後に精査しますが、12/07 日付で番号付けした「里境」の候補について、方位の傾きの概略値を示しておきます。 この場合は、Web 地図でなく、現実の 1/10000 地形図から直読しています。
下に示す値は、里線番号、認定長さ(km)、方位傾斜(角度)、600m辺りのズレ長さ(m) の順に記しています。 傾斜角は、「反時計回り」をしにしています。 つまり、東西線で -1.23度 ということは、東側が 1.23度 だけ南にずれていることを示します。 600m当たりのズレとは、言うまでもないことでしょうが、同じことを、およそ「1里」当たり平均的に何m誤差が生じているか?で表現しています。
+6X 2.40km -0.21 度 2.4m
0X 3.86km +0.57 度 6.0m
-5X 3.62km +0.87 度 9.1m
-6X 3.01km +1.81 度 19. m
-12X 3.48km +0.98 度 10. m
単純平均 +0.80 度
+7Y 2.17km +1.00 度 10. m
+6Y 2.18km +1.31 度 13.8m
0Y 2.85km +0.60 度 6.6m
-6Y 1.78km +0.30 度 3.0m
-12Y 2.65km +0.97 度 10.2m
-18Y 3.17km +0.67 度 7.0m
-24Y 1.53km +1.42 度 14.9m
単純平均 +0.87 度
ただし、精査の結果、有効数字の2桁目が修整されることがあります。
ここでは、粗い傾向を見るのが目的ですから、傾き角が大きめに出ることを避けない選択をしています。 つまり、道 and/or 用水のいずれの側線を選ぶか迷うときには、敢えて、ズレ角が大きくなる方を選んでいます。
このレベルで言えることとして、第一に、南北/東西 それぞれの方位が正しく実現されていると判断できることです。 一番大きい傾き角の値が2度を越えないということは、驚異的といえます。 学校の運動会で白線を引くのと同レベルで論じるのは可笑しいかもしれないが、実際に試してみれば困難さが判ります。
第二には、このサンプリングでは、唯一つの例外を除いて、東西/南北 ともに反時計の方向に僅か傾いていると言えます。 しかも、唯一、負の方向(時計方向)に傾いている X=+6 のラインは、更に大胆に南に延長して、「旧・深テイ小学校西側」 までを採用すると、+0.17 度の値が得られます。 ここでは、「同符号」 の指摘だけに止めて、その原因/理由の議論は控えておきます。
第三には、傾き角として 東西/南北 の線は独立に設定しているにも拘らず、ズレ角の値はほぼ同じように出現し、それぞれのグループの単純平均値は、同符号の 0.8~0.9 度の値を示したことです。 つまり、矩形格子(間隔/寸法の議論が済んでないので「正方格子」とは書かない)としては完全な直角が実現されていると考えてよさそうです。
お四国を歩いていると、幾度か 「道に呼び止められる」 経験をしました。 右往左往していると、「こちらだよ!」 と教えられるのです。 それほど神秘的な雰囲気ではありません。
岡山大学の中央図書館で調べをしていました。 コピー機を探していると、全くマークしていない書架の厚さ4mmほどの報告書様のものが呼び止めてくれました。 神戸大学の(土木工学の)神吉 和夫氏の博士論文[2001年]で、「古代都市下水の考察」 と言うような趣意でした。
(日本の)古代都市の、主に、平安京、平城京、藤原京と長岡京の「溝」についての研究の総括が記載されていて、大いに参考になりました。 私は、溝(給排水)自体に興味があるのではなく、道の付属物として、また発掘されたときの証言者として 「溝」 を追いかけているのですが、思わぬところで良いものに出遭えました。 例えば、区画の幅を決めるとき、溝を含めて考えるか、溝は付属物とするかについても、京の成り立ちによって両方あるとのこと。
中学のときの恩師が、「犬・棒」 のことを、「ぐうたら犬は、棒に当たることすらない」 のだよ・・・ と歌留多の読み解きをしてくださったのを懐かしく思い出します。
一昨日だかに書いた、夢の続き・・・ ピタゴラスの三角形について記します。
手元で、急に直角(90度)が必要になったときどうしますか? 多くの場合、はがきや洋紙などがあればその角は充分な精度の直角を持っています。 それが怪しいときには、ある大きさの紙(布でも許容)を2度畳めば、それらしいものは作れます。
ただ、運動場規模あるいはそれ以上になったときどうしましょう。
古代の条里遺構を見るとき、(南北方位を持つ場合)南北線の決定には北辰(北極星)を頼ったことは間違いなさそうですが、東西線については簡単には理解できません。 勿論、当時既に春分・秋分に「太陽が真東から昇る」ことは広く知られていたでしょうが、平野部のいたるところで、予め、その刻印がなされていたとは信じられません。 (春分/秋分以外の任意の日時の太陽の位置から真東を割り出すのは、正確な時計を持っていても、至難の業でしょう。)
そこで、巨大な直角定規が必要となります。 既に書いたように巨大な木造建築や、それに先んじて巨大墳墓を作る能力とシステムを持っていたのですから、技術論としては、不可能ではなかったでしょう。 ここで私が想定するのは、30尺/40尺/50尺の縄定規です。 つまり、ピタゴラスの三角形の一番シンプルなものが実用に供せられていたとする仮説です。 それだけならば、誰でも思いつき、誰かが文字にしているかもしれません。
仮説の第二段は、『南北方位を持たない正方格子にその証拠が残されていないか?』 ということです。 第三段は、『尺五/二尺 の曲尺(かねざし)は伝承されてないか?』 ということです。 この 『第三』 については、最後に、少しだけ検討します。
条里の格子が南北方位と3~5度程度ずれている場合は多く認められ、その原因・理由については議論が出揃っているように思います。 しかし、20~40度傾いている例も少なくありません。 多くの場合、地勢的要素に理由が求められ、ほぼ納得されているようです。 そのとき、傾斜角の決定のよりどころはどこに採られるでしょうか?
水田は元来水の流れに大きく依存していますから、田圃数枚程度の狭い地域では自然発生的に水路や畦は決定できます。 「条里制」 は更に広い範囲を覆いますから、この 「自然発生」 を超える力(行動原理)を必要とします。
Web地図上で少し当たって見ました。 岡山市域から、古い意味の山陽道を西に向かって矢掛近くまで進んでみます。 実際に、8cm/6cm の紙の直角三角定規を作ればよいのですが、およそ36.9度の角度が得られます。 地図上にこの角度を探すのです。
5つのポイント、「津高」、「辛川」、「吉備津」、「足守口」、「真備」で見る限り、津と吉 は問題外で、辛・足・真 は検討の余地がありそうです。 あくまで、ファーストサーベーで、結論付ける積りはありませんが、この地の精査と、他の地域での検討を要します。
木工用の曲尺(カネジャクでなく、さしがね)については、手許には中学の教材用のものしかありませんから、実用品についての精査が必要になります。 因みに、「教材用」 は裏表cm目盛りで、刻印は 15cm/30cm で、1cm/2cm程度の余白がありますから、腕の長さの比は 1:2 としてよいでしょう。
私の記憶の隅を掘り起こしたところでは、腕の比 1:1.4 か 1:1.7 程度のはずです。 また、丸太から角材を切り出すときの便宜のために、「裏尺」 として、2の平方根(約1.4)倍の(引き伸ばされた)目盛りが刻んであったと理解します。 プロに知り合いが見当たらないので、ホームセンターにでも出かけましょう。
曲尺の議論は、今少し、稿を改めて続けます。
後日記載[060303] 曲尺の映像 元のHPの版元・kintaro さんの議論については評価しきっていませんが、ユニークで精力的です。
感覚(直感)を重視する私の手法(構想)を自然科学系の友人に話したところ、「独断と偏見に満ちている。 危険だ!」 と批判されました。
結構だと思います。 思えば、実験系の純粋自然科学であっても、独断 AND/OR 偏見のない構想力には限界があります。 自然科学が客観的で普遍性を持つと言うのは一つの神話です。 作り上げられた神話です。 若しかしたら多くの自然科学者も、その呪縛に捉われています。 確かに、実験事実に裏付けられた普遍性は必要です。 けれども、実験も観察も自然現象の一つの断面を切り取って見せているに他ならないのです。
「チンパジーを檻に入れて、こちらから鍵穴を覗いたら、向こうさんも覗いていた」 と言うジョークがありますが、それもまた 「自然」 というものです。 要は、複数の実験(できるだけ多くの切り口)で見たときに、自然現象が幾らかシンプルに記述できるかと言うことです。
その意味で、大胆な仮説(時として独断と偏見と呼ばれる)がないと、大きいブレークスルーは得られないのです。
社会科学/人文科学の対象の場合、人間の営為が反映されていますから、その時代の人間の心理/行動原理が蓄積・埋蔵されています。 「今」 の常識から一旦解放されて考えることも大切なのです。 夢想と大胆な仮説は紙一重です。 最後には、複数のチェックを経て小さな 「定説」 が得られるのでしょう。
記述漏れがありましたから、時計を巻き戻して書いています。 今は、12月27日です。 幾らか、重複記述があるかもしれません。
いささか結論を急ぎます;-
基準南北線 X=0 と、X=+6 (岡大津島北団地東端~旧・深テイ小学校西)については既に書いたと思います。 X=-6 は、「運動公園西の道路西端~厚生町二丁目」とします。 X=-12 「津島西坂・明誠学院入り口 (途中、京山を横切って)~野田/新屋敷境界」 と考えます。 (このラインは傾斜が大きく、改変されている怖れあり)
正確には「里境」と呼べないのでしょうが、『伊福郷』と『石井郷』とを東西に隔てる「郷境」は、X=-5 に相当する「坪境」だったと理解されています。 このラインを北に伸ばすと、「津島福居一丁目」のほぼ真ん中を南北に貫く、道&用水 に到達しますから、ここでは、この線を里境に準じて採用します。 この線は、南に進むと、桑田中学校北辺で行方を失います。
同じ意味で、これは東西線ですが、X=+6 のラインは地表遺構が乏しいので、「座主川」が示唆する X=+7 のラインも里線に準じるものとして扱います。
X=-18 に相当すべき線は、「能登川用水」の北の「西崎」辺りで探ることは可能ですが、長いラインが取れないので、議論の対象から外します。
当面は、東西線については、これらの(5+1)本、南北線に関しては、(4+1)本を扱うことにします。
条里遺構の調べを、FieldWork として捉えたとき、なぜ面白いかということをメモしてみます。
「田圃」「大溝」 の調べですから、『我田引水』 の議論であることは承知です。 <ここ笑いドコロですけど>
面白い理由は、3~4つほど挙げることが出来ます;-
1)奈良/京都周辺では、「都」 の直接的影響が強すぎる。
2)(瀬戸内で言えば)神戸周辺は面白いし、精力的な研究がなされているが、地形の影響が強すぎる。
3)(同じように)海に面したデルタ地帯では、地形要素に加えて、中世・近代の干拓との分離に精力を要する。
4)良くも悪くも、「吉備国」 の潜在力を写している。
更に望ましい条件を付け加えるならば、
A)先の戦で焦土化を免れた。
B)高度成長/バブル期 に乱開発を免れた。
があると思われます。 岡山市域全体では焦土化は免れませんでしたが、狭い意味の 「津島地区」 は町の形を失うことはありませんでした。
「乱開発」 に関しては、これも全域ではなんとも言えませんが、「津島地区」 の多くの面積が明治の末に旧・帝国陸軍施設に抑えられ、今の岡山大学や県市の施設に受け継がれたと言う 「幸運」 に恵まれています。 加えて、それぞれのリニューアルが多くの埋蔵財(遺構)を陽の元に曝らされたという、「予期せぬ倖ギョウ」に遭遇しました。
この稿の最後に、少し話が逸れるが、「なぜ今なのか?」 について書きとどめておきます。 それは、一つには、今の時期は口承伝承が消えてゆく重要なターニング・ポイントだと言うことです。 具体的に書きます。 敗戦時に20歳台前半であった人たちは、それは先の戦で仲間を失った人たちですが、今80歳代前半です。(かく言う私は、敗戦の年に7歳ですから、戦争を目撃したした最後の世代です) 事実、私が先週訪ね当てた先輩は、存命ではあったが、お話を伺うことはできませんでした。 加えて、今の生活事情では、その次の世代に語り継ぐ機会は稀有なのです。
も一つは、政策的な問題です。 昭和-平成の地区・地名の統廃合は地図に含まれる情報を消し去ります。 地名が消されるだけでなく、2000年(西暦)ごろから始まった市街地での小中学校の統廃合と相俟って、学区の境界を変更/消滅させます。 学区の境は、多くの場合、中世の「郡」の線を受け継いでいます。 それはまた、今着目している時代の郡境や郷境(里境)を写しています。
つい先年まで100年単位で伝承できたことが、今では10年の単位で忘れ去られるのです。
歴史観・・・と振りかぶると大仰だが、このB-Logで本当に調べて、示したいのはこれかも知れません。
少し長い前書き
つまり、「1200~1300年前の路」と書くと、幾つもの謎や疑問が出てきます。 まず第一は、「1200年前に大規模土木事業ができたのか?」 です。 それには、A)短期間に?! B)高精度で?! C)統一的に?! などがあります。 第二以降に、「なぜ維持できた」「誰が?(そんなに大勢の民衆動員?)」・・・ と続きます。
今回は、第一のうち、B)高精度で?! と言う疑問に関するものです。 これも、誰もが、肯定したい気持ちと否定したい気持ちにさいなまれる問題です。 つまり、自分は現在の 「高度文明」 の上に軸足を置きながら、古代の人には 「有能であって欲しい」 けれど 「そんなはずはない」 と考えます。 話を変えると、「ピラミッド伝説(疑問)」 で置き換えられます。
条里制の場合、必ず登場するのは 「渡来人集団」説です。 これは、多分真実で、かつ、虚構です。 ひどい言い方をすれば、「ピラミッド=宇宙人」説と同じです。 ギリシャ演劇で言うところの 「困ったときの ゼウス・マキナス」 です。
確かに、渡来文化(文物)と技術集団(人)なしにはできなかったでしょう。 問題は、高々数百人の集団ではできなかったという点です。 「システム」 が存在していた点です。 このところは、先達の地理・歴史学者も困惑しているところと見られます。
「システム」については私もまだ手がかりを得ていません。
夢の中味
話を本筋に戻します;-
今朝見た夢です。 技術論よりも認識論として、私の中で渦巻いているものは、なぜ 「6/12/60進法」 なのか? と なぜ 「方位がずれた条里格子」 があり得るのか? です。 それに曙光が見えました。
所詮、ゆめ の話ですから、眉に唾して読んで下さい。 これから(今日以降)検証してゆきます。 現れたキーワードは、『曲尺(サシガネ)』 と 『ピタゴラスの定理』 です。
技術としての 「規矩術」 がこの時期(奈良期あるいはそれ以前)に完成していたのは、仏教芸術(特に建築)を見れば明快です。 ですから、土木測量技術の基礎は完成していたとみても無理はありません。 一方で、天文・占星術にも疑う余地はありません。 条里の方位を決めるのも容易でしょう。
そこに、具体的に導入されたのが、『ピタゴラスの定理』 だという示唆です。 <蛇足ながら ピタゴラス の名前は出てこないでしょう> 江戸期の数学・「和算」 の中でこの定理が明快に証明されているのは周知の事実です。 それが奈良期に実用に供せられていたことを論証したいのです。
一般論を言うのではありません。 30尺/40尺/50尺 の縄で三角形を作って張りつめると直角三角形になることが 「当たり前の知識」 だったことを示したいのです。
彼らに、そのような素地があったら、6進法~12進法の問題は、認識論としての問題は、解決できると思うのです。
話が飛躍したのは承知です。 一旦稿を閉じます。
え? 「方位のずれた条里格子」 のこと? それも稿を変えます。
本当は、地上の推理を重ねた上で、「発掘」 によって得られた 「動かぬ証拠」 とつき合わせるのが、この B-Log のシナリオです。
実は、推理=数理的検討 はかなり進んでいるのだが、記載が間に合っていません。 それと平行して、「埋蔵文化財調査報告書」 の調べを進めていて、12/01 と 12/04 (本日)に、幾つかのことが判ってしまいました。
スポーツセンター(正式名称は「岡山県総合グラウンド」)のメインスタジアムの第3コーナーのフィールド寄りに、「里境」 の交点があると推測される (X=Y=0 の点と呼ぶ) と・・・いうところまでは書いたと思います。 今回の国民体育大会のために、スタジアムのメインスタンドを改修したときに、その交点から西に伸びるであろう 「大溝」 の一部が確認されています。 その試掘区の上に 「遺跡&スポーツミュージアム」 という施設が作られています。 県の 「埋文センター」 の出先と理解すればよいでしょう。
そこで、資料を見せて頂いたり、駐在員のかたに参考になる意見を聞かせていただきました。 具体的なこと (数量的検討) は少し先の課題としておきますが、この 「大溝遺構」 の西 (Y=0と想定したライン近傍)にも 、過去に2つのトレンチで 「溝」 が認められていることを知りました。 また、里境交点の真南の近傍 (つまり、X=0と想定したラインの近傍) にも確度の高い「溝」と、やや確度の低いものが確認されたと記述されています。
それぞれの絶対位置を図面から読み取っているところですが、2~3mの精度で確定するのは困難です。 もう2~3度足を運ぶ必要がありそうです。
前報の、2つの画像を開示しておきます。


このタイプのパネルでは、いずれも最寄り駅までの営業距離が表示されていますから、位置も後から確定できます。
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