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桃太郎スタディアム

  県営グラウンドの陸上競技場・桃太郎スタディアムのメインスタンドの上から写真を撮ることを思いついて、現地に行きました。

  普通の日には、厳重に鍵が掛かっていると覚悟していましたが、事実上フリーパスでした。(勿論断りは入れましたけれど)
  ポケットカメラだったので、写真としては、さほど有用な資料は得られませんでしたが、幾らかのことは確認できました。  特に、武道館の 「市女笠」 の屋根先端部とのラインの関係が、ほぼ理解できました。  「岡山放送KK」 側の眺望も、ほぼ、確保できました。

  ロビーに飾られた、スタディアムの立体模型や航空写真からも若干の知識が得られました。  これまでの見解を支持するもので、覆すものではありませんでした。

スタディアム岡山放送側

スタディアム市女笠側

スタディアム航空写真


  上の2枚の写真は、スタディアム最上階から、東西里線の真上に立ったと想定して撮った。  東向き(1枚目)は、画面中央に道&水路がストローの太さ程度に見えているはずである。  西向き(2枚目)は、武道館の市女笠を望んでいる。  筆者の計測では、市女笠のセンター2~3m北に東西里線センターがあると理解している。
  3枚目は、東上の空から(岡山放送側から)撮られた空撮パネル写真の複写物である。 画面下縁のほぼ中央のところ(青屋根の右)に、岡山放送側から道が出て来る。  画面右辺のほぼ中央に、左右に(南北に)渡るゼブラゾーンが写っているが、南北里線はこの手前3~4mにあると考えられるから、「里線の交点は、第三コーナーの手前フィールド内にある」 とする計測が確認できそうである。
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岡山市立中央図書館

  岡山市立の図書館で調べものをしました。  分館もいくつかあるが、「中央館」 は旧市街地の南の端に相当する位置にあります。  筆者の記憶に間違いがなければ、刑務所跡地です。

  郷土資料にも眼が向きましたが、主に、地図・地形図の所在を確かめてきました。  1/2万5千 、1/5万 [国土地理院]は平成9年前後の、比較的新しいものが揃えてありました。
  古いものでは、M31年地図(M28年測量)の1/2万 は県立図書館所蔵のものと事実上同じ兄弟版と思われるもの[電子複写]がありました。 <幾らか焼き縮みしたところまで一緒でした。>
  1/5万については、M34年(M30年測量)の「岡山市」、M33年(M30年測量)の「金川」 がありました。  筆者にとっては初見でした。
  M42年測量に準拠した大正14年(あるいはそれより古い発行)の地図の所在を調べましたが、短時間には見つけることができませんでした。

  岡山市教育委員会の調査になる、古い街道に関する現地探査報一揃えがありましたが、内容を検討する時間余裕がありませんでした。  丁寧な地図とスナップ写真が添えられており、有用であると思われます。

郷土史資料

  妖しげな爺さんが、自由通行路といえども、駐車場をタメツスガメツしていたので、地主のF夫人は、最初は訝しげでしたが、直ぐに打ち解けて、自宅(小物店)に招じ入れて、一冊の冊子を貸して下さいました。

  「津島のむかし」という、郷土資料(副読本/津島学区コミュニティ協 1992年制作)でした。  難しげに言えば、市史の引用や地元伝承を書き留めたものなんで、学術的再検討は必要ですが、意味深い資料です。  <入手したいので、地元の古本屋さんに訊いたら、「業界では、『自費出版扱い』で、値は付けられない(扱わない)」という幾らか冷ややかな反応でしたけれど・・・>

  とまれ、今後の精査のヒントを沢山頂きました。  例えば、これは今は「証拠採用」には至っていませんが、「七ツくろ 古墳(烏山の南への突出部)」の7個が並ぶ南北ラインは、X=-13 推定ラインの10~15m西に存在するようです。

細い道 3

  X=0 のラインの北端がどうなっているかということも、以前から気になっていました。

  一昨日、水曜の夕方に、岡山大学(津島)の北裏を調べていました。  そこの状況によって、X=0 の里境は、「岡大銀杏並木」の、本来どの位置にあったのかが決まるからです。  1/10000地形図では、並木道路の西端の延長線よりやや北に「擁壁」が描かれています。 それを採用すると、ラインは、並木道南端では「道の西端」、北端(座主川辺り)では「道の中央」が有力になります。  なお、M31年地図の精度を信じるならば、この部分の「道」は現在の「西端」より、3~5m西に読み取れるところはまた謎です。

  さて、北裏の状況です。

   <写真予定>

現在は、「擁壁」に相当する溝は残っていますが、畦を含めた農地はアスファルト貼りの駐車場になっていました。  畦道を示す境界石が埋め込まれ、郷人の自由通行路になっていました。
  この「自由通行路」の南は、岡大敷地(ほぼY=+10ライン)で、北は学生下宿マンションの敷地脇を経由して、長さ約100mありました。  ただし、山すその傾斜が始まっているので、そこまで線引きされていたのかどうかは、今は論じる積りはありません。
       
  結論としては、X=0 のラインは「銀杏並木北口」部分では、現在の「車道部分の西端」ぐらいまで「東へずらす」必要があるのかもしれません。

細い道 2

  気になっていた畦道探訪です。  一昨日に導入部だけを書きましたが、そのときの時系列は措いて、昨日写真を撮ってきた道について詳しく書きます。

  津島地区の、市バスの妙善寺線終点は、東から来るとT字路のなって突き当たります。  ここから南へ進む道は、古い人たちは「騎兵隊道」と呼びます。  80年以上も昔の記憶なのでしょう。  この道は坪境の中間ぐらいに作られた道で、その東話題の南北道があります。  以前から気になっていた畦道です。
  「騎兵隊道」が東西の坪境Y=+3 に相当する線と交差する点・西南隅に、市の指定の保存木の「やまざくら」があります。

        0601TminamiB32.jpg

  この写真は、坪境線の上に立って東を望んでいます。  この東西線は、断続的に残っているばかりなので、これまで触れていません。  とりあえず、この小径を東に進むと思って下さい。  

  注目する道は、視野の中央に小さく写っている建物東側にあって、1/0000地形図では明示してないが、最近入手した1/2500市域図(1998年)では畦道として明記されています。  実際に歩いてみると、北はY=+の4ラインにT字接続し、南はY=+1のラインにやはりT字接続します。  全てが、用水を伴わない120~150cm幅で、「自転車がかろうじて通れる道」です!  つまり、長さは3丁分ですから、320m余りです。
 
        0601TminamiA32.jpg


  この写真は、建設中の個人住宅横で撮ったものですが、元の畦道を示す境界石が埋め込まれています。  ここに10分ほど滞在する間に、学生/買い物帰り・子供を連れた主婦 などの自転車が、上り下り3台ほど通り、重要な生活道であることが汲み取れました。
  このラインの南は塞がっていますが、幅30mほどの民地を突っ切ったと仮定すると、県営グラウンド北西隅に至ります。  つまり、これはY=-6のラインです。

個人史 2

  人は因縁の糸に操られるというと言い過ぎでしょうが、自分の方から因縁の糸を無意識に手繰り寄せることがあるのでしょうか?

  日付が変わって、昨夕の不思議な出遭いの因縁は、筆者の12歳の冬に戻ります。  「個人史 1」になぞらえて書くならば、筆者の12歳の秋冬には、X=+2 のラインの上に棲んでいました。  本当です。  X=+2の畦道だったろう所を、軍施設(現・岡大)がカバーした位置にです。  敷地の北側は、当時は兵営の名残の土塁があり、枳殻と鉄条網交じりの防柵がありました。  土塁の外は幅広の用水で隔てられてはいましたが、「福輪(林)寺縄手」に接していました!  そうです!  源平の兵が行き交ったと信じられる、「福輪寺畷」です。
  今は、そこを、岡山大・岡山理大循環バスが走っています。

  今日はその地点を訪ねて、東へ進み、X=0 のラインの延長線上を調べていて、先達のF夫人に出遭ったのです。

犬も歩けば 2

  夕方要件があって、つい今しがた戻ってきました。  要件の前に、1時間余り、現地調べをしました。

  今宵は、3つ4つの収穫があって、聊か高ぶっています。  全部を書けないので、項目だけ掲げておいて、明日以降記録します。
  まず第一に、X=-6と名付けたラインの、運動公園西北隅から北へ延びる部分を実地に検証しました。  平成元年地図では畦道だったものが、幅100cmほどの畦道のサイズだけを残して、アスファルト道になっていました。  多くの部分が両側をフェンスでガードされていました。
  次に、X=0 と名付けたラインの北限、岡山大学敷地以北がやはり、畦道のサイズを残して山裾に届いていました。
  加えて、駐車場とも公用畦道跡とも判らないところに入り込んで、このラインを調べていて、見咎めた相手がそこの地主で、近在の土地持ちさんで、見咎めるどころか色々教えてくださった。  大切な資料も貸して下さった。  戦中の陸軍さんの逸話(伝聞)も教えて下さった。  これは、「犬も歩けば・・・」 どころか、「キジも鳴かずば・・・」の裏ッ返し。
  その関わりで、数日前に書いた「理学部 門柱 」=旧・陸軍門柱の姉妹品の部品(笠石と袴石)の解体物を再発見!(写真は後日掲載予定)

  それに先立って、「半田山主峰と烏山との山峡(やまかい)」が、なにかの役割を担うかもしれないという着想を得ました。 これは、翌日の再探査で、少し無理があるので、夢で終わりました。 [06/01/27 追記]

  「現場百遍」とは、叩き上げデカの鉄則だそうですが、地図の上の検討も大切だが、矢張り歩かねばいけません。  幾らか表現を訂正するならば、書斎で考え、現場を歩き、人の話を聞いて、聴いて、訊いて・・・ の繰り返し、バランスが大切です。

路傍祠など 0

  1/2千5百 の地形図(岡山市域図)を1月20日手に入れましたが、これには 路傍祠/記念碑/墓標 が記号化されています。  これについて少し書きます。

  多くのものは、江戸期以降の代物だだと思われますから、今の作業に直接の援けにならないかも知れません。  が、「M31年(測量はM28年)」以前を記憶・記録する「動かぬ証拠」の一部ではあります。  しかも、人の往来そのものを直接反映する証しになります。
  手に入れた地形図(朝日航洋KK制作)について、岡北中学校校区(現・京山中校区を含む)とその周辺の中で、筆者の注目している路傍祠3箇所、題目石類(地図では「墓標」扱い)3箇所の内2箇所は記載されていました。  しるべ石、交通事故慰霊地蔵のクラスは記載されていないようです。

  第一段階として、地図の記号から拾い出しをして、現地を訪ねましょう。  また、逆に、地図が収録していないものを「再発見」する作業も必要かもしれません。
  X=-5 のラインを南側から進んで、「観音寺川用水」を横切る橋は「幸橋(さいわいばし)」の名が刻まれています。  架橋の年は不明ですが、「上伊福」の集落の南口です。  ここに、題目石/灯篭(灯明台)/道神・水神碑/記念碑 などが纏まっています。  灯篭に、僅かに「寛永」の年号が読み取れました。 記念碑には「明治33年ご成婚記念」とあります。

  話は更に広がります。  この作業の中で注目している用水路について、架けられている橋の名称と建築時期のデータもあれば嬉しい。  作業はいくらでもあります。

紙地図の計測誤差

  紙に印刷(複写)された地図から位置情報を読み取るときの誤差について考察します。

  すでに、Web地図の読み取り誤差については、二つの原稿を示しました。  最近の記述では、紙の上の地図の読み取りに言及していますから、そのときの誤差発生要因と誤差量について検討します。
  ここでは、およそ、4つの誤差が考えられます:-
 1)縮尺尺度の精度不足        2)印刷(複写)の歪み誤差
 3)紙の不均一伸び縮みに因る誤差  4)読み取りと換算時の誤差

  これらについて考察するとき、根本的には、資料が専門家集団(業者)の製作になる一次資料か、複写・転写に由来する二次/三次資料であるかで議論が分かれます。  近年は、電子複写装置によるコピーが容易になって、「コピー歪み」の混入が怖いのです。  単に寸法の再現ミスだけでなく、縦横の縮尺違い、直角が維持されないことをも含みます。
  さて、縮尺の精度不足に関しては、常識的に欄外などに示される縮尺(尺度目盛り)は長さが10cm程度かそれ以下です。 これをスチール製の物差しで読み取ったとして、スチール物差しの読み取り精度は0.2mmを覚悟しなければいけませんから、他の誤差が一切生じないとしても、2/1000程度かそれ以上の誤差が生じます。  縮尺尺度自体に均一性がなかったら、論外です。
  印刷や複写のときの寸法非再現性は、経験的には、注意深くなされても、1%程度は発生します。  縮尺目盛りと地図本体に共に、均一の割合で誤差が発生すれば、原理的には問題はないのですが、デザイン上、縮尺が別に植え込まれる例も少なくありません。  縦横の縮尺違いについても、ライン・スキャン型の複写機構では、悪くすると、縦横比が1%程度違うこともありえます。  縦横双方に尺度を用意した図はごく稀です。
  紙の伸縮の不均一性は、データを持ちませんが、1%では済まないかもしれません。
  読み取り誤差は、スチール物差しの目分量誤差ですから、最大0.2mmとして、読み取る対象の長さが2cmなら1%、1cmなら当然2%です。

  結局、総合すると、単体測定では、2~3%程度の誤差もありうるということです。  複数のデータだ得られて、平均処理をすることに意味があるとしても、相対0.5%以下に抑えるのは至難の業でしょう。  とりわけ、誤差要因を  A)システム的誤差  B)統計的誤差  に分けるとき、1)は取り敢えず前者、4)は後者、2)と3)とは分類しがたいところが一層困難をもたらします。

消える道 遺る道

  道が残され(遺され)、消されるとはどういうことでしょうか?

  これまで、「遺構」 という言葉を安易に使ってきたかもしれません。  推定線の上にある道が全て「条里道」だと断定した積りはないけれど、自分の中に、「おお、残っている、遺されている!」 という感覚があったことは事実です。
  M31年地形図を見ていると、また少し違った見方が生じます。  つまり、この地形図になくて、今ある「メッシュの上の道」はどう理解すべきかということです。  もちろん、M31図には、田圃の畦道を記録しているわけではないので、殆んどの「道」はその時点に潜在的な形で存在したと理解します。
  他方で、明らかにM31図以降に造られた道、とりわけ国道/県道/主要市道 クラスのものは、どのような経緯を経て出来たと考えれば良いでしょうか?  ここで、M31年図の重要性に気づかされます。  この年(この時期は)、まさしく、富国強兵が具体的に進行する時期です。  約10年後に、岡山に「旅団」が置かれ、いずれ「師団」に昇格するという夜明けの時期です。
  このように考えるとき、「道造り」「施設作り」はその時代背景を反映しているはずです。  それまでの「道」は、個人の、あるいは個人の小さい集団の、日常生活の利便性に基づいて、かなり自然発生的要素を受けて発達したと考えられます。  なるほど、条里の畦道自体は、往時の国家権力/地域勢力により造られたかも知れませんが、生活道としては、「日常の利便性」抜きには発達・発展することがないのです。
  明治期後半以降に、行政主導の道造りに移行したとすれば、「日常的利便性を避けて」、あるいは、「利便性を補完する意味で」造られてゆく部分があるでしょう。  そのとき、当時の設計者は、「条里の畦道」を意識したかどうかということです。

  話しは少し外へ向かって広がります。  先に、『小学校の敷地は、「2坪」の中に収められた(はめ込まれた)』という仮説を述べました。  この例は、まさしく、ここで道造りについて考察に含めようとしたことと同じです。  「御野小」の例は既存集落の影響を強く受けたと判断しましたが、その他の比較的歴史の古い小学校の多くは、「集落を僅かに避けて」、しかし、「利便性の低くない」ところを選んで立地せしめられたということです。

  近代的な意味で道を設計するときには、小学校敷地の200m程度のサイズではなく、1km~2kmのサイズでの要素の影響を受けますから、同列には論じられませんが、(多くの場合用水を伴う)畦道の存在には影響を受け易いのでしょう。  ここでも、メッシュの「ゲージ」が約100mというのは「手頃なサイズ」です。  仮に、メッシュのゲージが「1里=600m余り」なら、里線に沿う道に拘泥する人は少ないでしょう。  100m間隔の畦道が眼に見えて存するとき、その中間に線を引くのは、それなりの動機が必要です。

旧・帝国陸軍の門柱

  旧・帝国陸軍敷地の門を記録に止めておきます。

  現在の岡山大学(津島)の通称「理学部 門」ですが、開学以来、構内工事などのとき以外は恐らく開かれたことのない代物です。  陸軍時代/連合国軍の接収時代 の状況はわかりませんが、門柱は往時のものと思われます。  扉は、明らかに、岡大になってからのものです。
  筆者の記憶では、かつての「岡大東門」が同じ材質・構造の門柱を持っていました。  歩哨舎も備わっていました。(「東門」は現在の通称「教育学部・工学部 門」と違って、東西に走るバス路線を東で抑える形に、東を向いてありました。  『大学闘争』の季節に、不幸な事件の現場になったところです。)
      
    gate_sci32.jpg


  位置は、座主川の直ぐ北ですが、東西位置で言えば、X=+2 の20m程度東で、このラインの代償物と思われます。  X=+2 のラインは、M31年地形図では、この辺りで、主要な南北道(道単独)の一つです。  地形図が作られて約10年後に、この地域は陸軍施設で覆われるわけです。

  近々、このゲート周辺が改修される噂があるので、記録に止めておきます。 [06年1月18日 筆者撮影]


  2月上旬に、このキャンパスの裏で、同種の門柱の部材を分解したものを発見しました。  『昭和30年代に、市営住宅 (北斗住座) を建設したときに周辺道路が拡幅され、撤去された』 という伝聞を教えられました。
  脳内の VIDEO 影像を捲き戻すと、筆者には該当する門の記憶がありますが(大謎)、津島キャンパス北団地 (法経文学部敷地部分) の西北隅から約100M南に下った位置に西に向いて開口していたものに相当すると思われます。(往時の市販地図に記載されています。)

20060527173420.jpg

20060527173358.jpg

  
  上の写真と同じ部材であるのが判ります。

M31地形図を読む 2

  M31地図に遺されたメッシュの、数量的検討に入ります。

  前の原稿で述べた、この際の南北/東西基準線の方位角は、複写歪みが気になりますが、    です。
  一応、このラインの選定を正当とし、「ほぼ正確に南北方位を示す」という結論としておきます。

  次に、南北ラインに関してラインの間隔を読み取って、実距離に換算した後に、そこから導かれる「ゲージ」について示します;-
得られた「1坪」の長さ=1丁の最大値は113.9mで最小値は101.0mでした。  いずれも、小数点以下の精度は保障されませんが、念のために書いておきます。  単純平均値は、108.4mでした。  複写による縮みの係数(逆数)=101.2%は補正してあります。

  更に、東西ラインに関して同じことを試みます。  12本のラインが得られます。  これから導かれるゲージは、1丁の長さにして最大値が110.2mで、最小値が103.7mで、単純平均値は109.0mでした。

  これらの結果を平均値でなく、ばらつき度合いで評価するために、得られた「ゲージ」の数値の出現頻度をグラフ的に示します;-
なお、元旦に示した、Web地図を介した「里線」読み取り結果と対比するために、上で得た数値を6倍して、「1里」相当長さについて示します。

   600|■
      |
      |■   □
      |■   
      |■■  □
   650|■■■ □□□□□□
      |■■■ □□□□
      |
      |■

  ここで、■は南北線間隔の読み取り値の頻度分布で平均値は650.4m、□は東西線を示しており、平均値は653.8mです。

  「元旦の結果」では、基線ごとの6~9個の読み取り値の平均値の分布を示したので、当然、ばらつきは小さくなっています。  そのことを考慮すると大きな差異は認められないと言えるでしょう。  紙資料から読み取るときの誤差の発生については別項で述べる予定ですが、紙の縦横(東西/南北)に関して、誤差要因の大きな違いはなさそうです。
  一応以上です。  ここでは、強い結論は述べないでおきます。

M31地形図を読む

  金曜日に入手した、M31年の旧・帝國陸軍地形図「村野御」「山岡」を読み解きましょう。 「」 内は軽いジョークで、『縦書き・横表示』です。

  1/2万 の縮尺ですが、現在の1/2万5千 から較べると、実に素朴な、情報量の少ないものです。  村や町が未発達だった所為だけでなく、山/川/道 の「地形」表示に専心しているのが判ります。  例えば、小学校は出来たばかりでしょうが、旧・弘西小学校の位置に記号があるだけで、他のものは記載されていないようです。  医学校(第三高等学校付属)と、おそらく、今の弓之町の師範学校と想像されるものは示されています。  社寺については、式内(延喜式)の社に関しても、伊勢宮(番町)と御崎さん(北方・旭川河畔)にそれらしい記号が置かれているだけで、寺院については、記号が付けられていますが全部を網羅しているとは思われません。

  ここの作業の目的は、 1)M31年(M28年測量)当時の、主要な「道/用水」のありようの検証 と 2)往時の遺構から読み取れるゲージの推定 とにあります。  心底では、 3)メッシュの基準線/基準原点の推定 に迄至れば嬉しいが、それは困難でしょう。

  読みとりは、取り敢えず、「御野村」が主な対象になります。  今の対象地域を眺めると、南北ラインに関しては、これまでに「基準」に選んだ X=0 は道として存在しますが、屈曲が多いようです。  2km程度の長さに亘って、明確な直線を示している例の中では、X=2 に相当するラインが明瞭です。  つまり、北は半田山山麓に発して、ほぼ切れ目なく、揺らぎ少なく、往時の「下出石」=下石井二丁目辺り迄続いています(約3.5km=32坪分)。  今では、岡山大学(津島)、運動公園、岡山駅と関連施設、駅南の旧・工場群にカバーされて、清心女子大東辺あたりの500m、そのほか3箇所併せて400m程度の痕跡を残すのみです。
  このラインを含めて、600m程度を超えるものは、10本・12片が認められました。  それぞれのライン間隔の読み取り結果は、別項で示します。

  東西のラインについては、一応、Y=0に相当するラインが明瞭さにおいて筆頭です。  中世以降の大きな加工を推定させる、「山陽道」:Y=-12、能登川用水を含むライン:Y=-18、大供三股用水を含むライン:Y=-24は明快です。(いずれも「岡山」地図内)  北部では、座主川の東西流(Y=+7)は明確です。  また、Y=+10、Y=+6、Y=+3、は600~900m程度で、田園の中に記されています。  尾針神社から伊勢宮に至る、Y=-6 ラインは、市街地も含めて、それらしいものは読み取れません。  幾らか驚きです。

  定量議論ではありませんが、ここに書いておきたいことは、「メッシュは今の旭川以東に繋がるか?」という命題です。  竜ノ口山塊と操山山塊に挟まれた「上道地区」にメッシュがあることは、旧・岡山市域にあることより自明のものとされているかも知れません。  「上道」の地名は、恐らく、「津島」や「伊福」などより重い地名だからです。  だが、そこでのメッシュは、これまで述べてきたメッシュとは独立のものと考えられています(筆者は考えています)。
  それは置いて、「百間川放水路」より西南の地域に「津島」のメッシュが及んでいるかについては、未だはっきり出来ない部分があります。  が、M31地形図では、X=0 のラインの東方「竹田地区」の長さ700m程の用水が「存在を主張している」のです。

  では、また。

雑感

  昨日のセンター試験に、条里制や箸墓古墳のこと(間接的に「上ツ道」のことも)出ましたね。  もし、このB-Logの読者に受験生が居られましたら、ご連絡下さい。

 

資料の所在

  街中に出たついでに、県立図書館で、資料調査をしました。  主に、「地形図」関係でした。

  岡山県南部をかなりカバーする、M31年~32年の、陸軍地形図(1/2万)が県図書館にありました。  ただし、電子複写物で、等倍複写を目指しているのに、「御野村」、「岡山」の場合は、欄外の縮尺目盛り(東西)に関して1~2/1000程度の縮みがありました。(1km当たり1~2mですから要注意!)  南北については、確認が困難です。  残念なことです。  なお、一次複写物の段階で、枠に関して直角が維持されているかどうかのテストはしませんでした。
  図書館のコピーサービスで、一部分複写しました。  二次複写による東西寸法の劣化は無視できそうです。  念のため、複写の縦横を変えて持ち帰りましたが、二次複写の相互に関しては、縦横比率は維持されていました。  また、二次複写同士で枠のコーナー角度が変わらなかった(!)けれども、直角であるべきものが2/1000程度歪んでいました。  皮肉なことに、一次複写の段階で歪んでいた恐れが出てきました。
  実物は、既に書いたかも知れないが、岡山大学付属図書館に「第6高等学校蔵書」を引き継いでいます。

  国土地理院の1/5万、1/2万5千 地形図は、昭和60年前後の版が、ここ(県図書館2階郷土資料コーナー)に、ほぼ揃っているようです。

  もし、1/10000 地形図が必要なら、同じく県立図書館に「文化財地図」として収蔵されているものが転用できそうです。

  いずれも、以前天神町に在った「県文化センター」所蔵のものを引き継いでいます。

==
  市役所(地下売店)で、1/2500 「市域図(白地図)」を6枚ばかり買いました。  土木業者などが「現場施行図」に添えて、提出するために用意されているものでしょうか?

===
  K書店の地図コーナーで、「測量法改訂」に伴う、測地系調整の数値表(非売品)を見つけました。  岡山辺りでは、東経/北緯ともに、およそ、10秒角ほどの補正が必要なようです。  距離に直すと、東西で200~250m、南北で300~350mになるでしょうか?[06/02/01 一部修正]  新旧の測地系を混用すると大変です。  この補正量は、1月8日記載の「読み取り誤差 2」の値、@東京、@明石 とおおむね同じです。  後で統一的に記します。 [06/02/01 記事参照]

番町の西、更に南

  江戸期の城下町の創設は、影響が大きいものです。  今日、ODMで仕事しながら、調べものしてみたら、南方小学校敷地が、戦前は戦後と違い南北に長いことが判りました。  それだけでなく、その周辺のゲージが、矢張り乱れていることも判りました。  実際、現在の敷地は、特に東西が狭小であることが気になります。  北隣の元・「国立病院」敷地=元・元・「岡山工業学校」敷地の東辺が古い姿を止めているのかもしれません。  いずれ、詳しく書きます。

  これに関連したことでは、新しく稿を起こす部分と、過去記事の修正も出てくると思います。  この地域や、更に南の、今で言う富田町辺りにまで、江戸期の街づくりの影響(ゲージ変更)が出ているようです。

個人史

  読者はお気づきのように、このB-Logでは、「道」に対する「思い入れ」と「思い込み」を書いています。

  閑話休題で、(いつでも閑・休ではないか!?)、更に、個人的なことを書いてみます;-
  <「個人的」と言っても、『道フェチ』の話ですから、落としどころは結局「道話し」です・・・>
この津島地域をしつこく書く理由の一つに、私が自転車乗りだということがあります。  もっと書き込むと、中高大学生のほぼ10年を、里線/坪線の座標で言えば、Y=+6 の里線上に棲んでいました。  里線の「上」とは奇妙だと思われるでしょうが、道の方が微妙にずれています。  坪線で言えば、X=-9のラインの約30m東です。  (いずれも、「門」があった位置で示しています。)  持ち家ではなかったが、家の造りは、備前の典型的な農家造りでした。
  さて、それだけなら、「閑話休題」にもなりません。  大学を出て7~8年後に、諸般の都合で「津高郷」に家を構えましたが、退職までの35年間ほど、この「X=-9,Y=+6」の格子点の傍を通過して自転車通勤する(した)わけです。  雨の激しい日と別途の用事があるとき以外ですから、一年230日程だったでしょうか? (昔は、土曜は休みぢゃありません)

  今日、元職場へ用事があって、「その道」を通りました。  ローカルな話ばかり書く中で、更にローカルになります。  「その道」は、西から東に進むとすれば、格子点「X=-13,Y=+4」と「X=-9,Y=+6」とを定規で引いたような、古い、邑道です。  このような道が形成された理由は、この辺りで山裾に至り、メッシュが作れなかったからです。
  「定規で引いたような」斜めの直線は、およそ500mの長さがあります。  その道を日夜走りながら、一つだけ気に入らないことがありました。  500mのほぼ中間点で、幾らか迂回して、今気が付けば、Y=4の坪線と、X=-10の坪線を経由するのです。
  『道フェチ』は、その程度では、「気に入らない」などと言いません。  その「迂回したくない部分(120m強)」の最初の25mは今は民家の門に至る取り付け道になっています。  最後の35m部分は自由通行可能です(かねて思っていた通りです)。  中間の60mほどを確かめてきました。  自転車乗りの30年越しの謎解きです。  通り抜けられると予感していました。  「中間の60m」の東半分は踏み分け道(通行可)でした。  西半分は、山裾地域ですから、1.5mほどの落差を伴って、畦道もない田圃を通らなければ直進できません。
  お粗末な「落ち」で済みません!

  誰が、何時、改変したとは言いません。 「取り込んだのだ!」 などと言う積りもありません。  けれど、いにしえびとは、高低差はあっただろうけど、その道を直進していたと想像するのです。  いや固く信じているのです。

2進法?4進法?

  先に、6進法? について書きました。  この時代の数理的な思考構造を考えるとき、「都」の構造の考察は避けて通ることは出来ないでしょう。

  取り敢えず、往時の「都」の寸法や構造に言及した、手許の資料は2つだけあります。  ひとつは、先に記した、岡大中央図書館で偶然に発見した、神吉和夫氏の神戸大学博士論文です。  これは、寸法・構造の記述もさることながら、道と溝の関係に触れていることが特徴的です。
  もうひとつは、最近購入した、放送大学叢書#3035 白石太一郎氏の『考古学と歴史』です。  これには、引用ながら、藤原京[694年]/平城京[710年]の復元図(案)が縮尺寸付きで掲げてあります。  加えて、古代寺院の敷地図も示してあります。
  ここでは、これらの資料から、「都」の基本構造と特徴的な寸法を割り出す積りです。

  2進法? 4進法?
  藤原京/平城京 のいずれにおいても、街路網の最小構造は1X1のセルではなく、4X4のモジュールで出来ていると見るのが正解です。  例外や、意図的なバリエーションもありますが、「条大路」(東西線)と「坊大路」(南北線)の中央に「小路(中)」を持ち、「大路」と「小路(中)」の間にも「小路(小)」が引かれています。
  また、全体構造で見るときも、「坊・条」の区画を単位にして、藤原京では、10X10の構造であると考えられています。  ただ、この都では、「藤原宮」が中央に配置され「2坊・2条」の大きさを占めるので、また、もう一つの事情を考慮に入れるとして、「宮」の属する縦横のベルト地帯をエクストラ域と見れば、8X8の「大構造」が見えてきます。
  「もう一つの事情」と名付けたのは、「坊大路」の命名に見られます;-  つまり、およそ全ての「都」には左右あるいは東西の対称性を秘めていますから、中央に「朱雀大路」が置かれます。  また、この場合の「坊大路」の番号付けは、中央から外へ東一、東二/西一、西二と付けられています。  藤原京で朱雀大路の両側[そく]を除くと、一から五まで、正味スパンは4モジュール分です。

  このように見てゆくと、2進、4進構造が見えてくるのです。  「平城京」について調べる前に、筆者が、なぜこのことに拘るかを述べておきます。
  二つあります;-
ひとつは、条里のメッシュは6坪=1里 の構造をしています。  今のところ、「里」より大きい「大構造」は見えていませんが・・・  それだけでなく、長さの1坪=60間 というのも気に懸かっています。
  もう一つは、ある特定の「里」のメイン・ラインは「周辺線」なのか? 「中心線」なのか? という問題です。  これは、最初に「条里ライン」を施行するときの作業工程にも多いに関係します。
  その辺りの基本概念と「都」を創るときの基本概念が同じか? 異なるか? は大変重要なのです。

  元に戻して、「平城京」を見てみましょう。  この場合も、4セルX4セル構造のモジュールが見て取れます。  「平城」は「藤原」に較べると、メッシュに過不足があるようですが、基幹構造部分だけを述べると、南北9モジュールX東西8モジュールで、ここでも「藤原」と違います。  違いの元になる要素の最大のものは、「平城宮」は北端に置かれ、4進法原理が崩れたのかも知れません。  少し強引に言えば、「一条大路」北大路と南大路があって、そこにエキストラ性が秘められているようで、それをディスカウントすれば、南北は8スパンになります。
  平城以降の「都」で、南面/北面 の意識が強くなり、「南北」の対称性が崩れたことにも眼を向ける必要があるかもしれません。

  いずれにしても、「6進法」の影は見つからないのです。

  基本寸法の検討
  さて、図に示されている1kmの尺度で計ると、藤原京の1モジュールは約526mとなり、平城京からは533mの値が得られます。  若し、1尺=29,5cmを採用すると、各々は1780尺/1810尺になります。  一つのセルの大きさは、それぞれ、445尺=74間(?)/453尺=75間(?)が得られます。  (ここで、有効数字は3桁あるごとくに書いていますが、実質は2桁程度でしょう。)
  「藤原京」の基本寸は大尺=1.2小尺で計測すべしという議論があるのは承知していますが、ここでは深追いは止めておきます。

  なお、二つの都を南北に繋ぐ道 「下ツ道」、「中ツ道」との関係が示してあって、藤原京では東西の二坊大路に結ばれ、平城京では朱雀大路と東四坊大路の1セル西辺りに結ばれると理解されているようです。
  2本の道の間隔は、別の出典で(05/11/01 記事)、2.1kmと言われています。  この値を採用すると、藤原京のモジュール:525m、平城京のモジュール:560m[過大か?] が得られます。

  これらの数値は、原典で当たったものでなく、概算値です。  引用資料(二次資料)依存だからです。  参考のために示しています。

こどもの森

  岡山大学(津島)の旧・教養部の南には、「学南町2丁目/3丁目」が展開されています。  もともとの地域名(大字名)は『津島・北富(キタドミ)』です。

  この地域は、先に『伊福町』について述べたと同様に、町筋が混乱しています。  ほぼ45度の方位で、3本の細い用水が流れていることから推測できるように、弥生期以来川筋であったと想像されます。  実際、運動公園内にも、中世のものも含めて、方位45度程度の「溝」が掘り出されています。
  この混乱の中から、メッシュを読み出します。  一つの注目点は、「こどもの森」と「岡山放送KK」との敷地です。  筆者の記憶に間違いがなければ、これらは、1968年まで「岡山県農事試験所(農業試験場)」の敷地でした。 (小学生であった筆者たちのトンボ取りの聖地でした。)
        
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  写真説明 : 「岡山放送」南門前(X=0)を東進したところの津山線踏切『農事試験所』[05年夏撮影]

  特に、「こどもの森」は複雑な境界を示していますが、両者を包含する矩形を作ってみると、東西2丁X南北3丁の、区切りのよい図形が出現します。  この矩形は坪境で囲まれていると言えそうです。  北辺のラインは、東に伸ばすのは困難だが、西に伸ばすと大きく蛇行するものの、岡大農学部の南辺に繋がり、断続的に岡山商大の北辺に至ります。  これは、Y=+3のラインなのでしょう。
  矩形の南辺が X=0 に相当することは何度も記しましたが、矩形の中に認められる2本の東西線がY=+1 と +2であると認定しても無理はないでしょう。  ただし、只今現在は、岡山放送北辺に接する形で、こどもの森との間を「万成・国富線」が創られています。
  Y=+1 のラインは、東へは蛇行しながら約500m進めます。  西へは、既にどこかで述べましたが、京山中と岡山商大の間・「座主川」に繋がります。
  Y=+2 のラインは、東側は(現地調査が要りますが)180mほどは水路の遺構がありそうです。  この線の西側は断続的ですが、西端では、商大敷地を二分する形で東西道が残されているようです。  これも面白い風景を見せて呉れそうです。  行ってみると、それほど特異な風景でなく、公道(水路付き)を挟んで、ほぼ対等な二つの敷地があるだけでした。
  なお、二つの敷地の西辺のラインは、いずれも、狭い水路と踏み分け道(畦道の貌を残す)が残されていました。 [06/01/15]


  これら、Y=1,2,3の三本の東西ラインは、西へは、笹が瀬川を越えて伸びているように見受けられますが、この「楢津」地区は極く近年に農地整理が行われているので、あまり深入りしないほうが良いかもしれません。  実際、計測すると、100~105mゲージの綺麗な方形を形作っています。

発掘結果 2

  旭川に「岡北大橋」を架橋するために、「万成国富線」が整備され、そのときに、「北方藪ノ内遺跡」が地表に出ました。

  県教委の「津島遺跡(2004)」に、そのとき発掘された「東西溝(長さ約60m)」の写真が掲載され「条里溝」と判断された旨が記してあります。  原・調査報告書の眼を通さないで書くのは、気が早すぎますが、写真と(筆者が熟知している)現地の風景とを併せて考察すると、溝の南北位置は、緯度で、34.681041~.681102 程度の値であると読み取れます。 (発掘東端の東経は 133.929505 付近)
  ちなみに、このX=0 ラインを想定させる地表遺構の東端(大和町)は、北緯に関しては 34.681164 と読み取られ、岡山放送南門前が .681129、53号線に突き当たる点で .681102、西へ進んで運動公園西端では .680846 を示します。
  写真の視線の先には、「大和町ポイント」が明瞭に写っています。  幅は目測で5~7m程度と読めますが、後の報告書調査では、「幅~10m、深さ1.5m」と記載されています。  「大溝」と言うに相応しいサイズです。

  なお、「武道館の市女笠頂点」は、34.680855 を示します。 [いずれも、06・01・14 再読み取り]

==
  なお、「M31年地形図」では、「中井」の集落は記載されていますが、発掘されたものに相当する溝(用水)や道は記載されていません。
  国土地理院提供の閲覧サービスに『国土変遷アーカイヴ』というのがあって、結構古い空中写真が提供されています。その中に、1947年に進駐軍(連合国軍)が写した写真があります。 これh、事実上、利用できる最古の空中写真(航空写真)です。 それによると、上記の道は、岡山放送方面から東進するとき、今の県21号=岡山美作線を超えて、更に100mほど進み、西川に突き当たる前に北へ折れて、中井(北方・中井町)の集落に入ってゆきます。

発掘結果 1

  役所の用語では、『発掘成果』ですが、ここては古人[いにしえびと]への挽歌として、『結果』の表現を使います。

  05年(H17年)国民体育大会に向けて、運動公園の中の県営体育館が敷地の東南隅に移築されました[桃太郎アリーナ]。  それに先だつ埋蔵文化財調査によって、トレンチT47から「条理の溝」と判断できる南北溝が認められました。
  筆者が報告書の図面を計測して、経度換算すると、133.9198874~.919885程度の値が得られました。  「岡大入り口」の想定ポイントが.919810[今回計測]/絵図町の想定ポイントが.919992[今回]ですから、10m程度の範囲に入りそうです。

  なお、このトレンチの位置は、南北に関しては、「スタディアムの大溝」から370m弱、「観音寺川用水 : Y=-4ライン」の北65~70mにあります。

小学校の敷地

  創立の古い小学校について、「立地状態」を調べます。  なお、手許に、小学校の完全ないリスト/情報がないので、筆者の記憶で選択します。  創立が古い新しいということに、本質的な価値基準を置いていないので、ご諒承下さい。  ここで触れる小学校の多くは100年を超えていると考えて良いはずです。

  この話の口火になったのは、「伊島小学校」でした。  更に、「石井小学校」については、校庭をX=-6の里境が横切っているらしい・・・ と記載しました。  「立地」についても幾らか説明を加えましたが、もう一度詳しく見ます。  「石井小」の北辺がY=-14 のラインに接して、南辺が10~15mの民地を挟んでY=-15 のラインに臨んでいることはそこで書きました。  東辺は里線の「20間東に」張り出し、西辺はX=-7 の坪線から「20間西に」張り出していると理解しておきます。  筆者の記憶では、1990年前後の市道拡張で、西辺を幾らか譲ったかもしれません。  面積としては、「伊島」の場合とほぼ同じで、「1坪」と2/3程度になります。

  「石井」と同じ中学校区の小学校に「三門小」があります。(ここは比較的新しく敗戦後の創立で、1952年の分離校です)  これの敷地も、ここまでに述べた2校と同じような矩形で、ただ、南北に展開しています。  北辺がY=-14 に接し、東辺/西辺をそれぞれ、X=-16/X=-17に接していると読めます。  南辺は単純ではありませんが、「幼稚園」との譲り合いがあると理解されます。  幼稚園との関係は、「伊島」でも但し書きをしました。  以降は、但し書きを省略する場合もあります。

  「御野小」に眼を転じます。  この敷地も、これまでの3校とほぼ同じサイズ・形態をしていますが、ここでは、方位が乱れています。  旭川と水路[観音寺川/西川の上流]と、神宮寺山古墳[式内・天計神社八幡宮]の影響を受けています。  更に、「陸軍M31年地図」を参照すると、その南門近くに「中井」の集落が記載されているので、これも敷地の設営に制限を加えたのでしょう。
  余談ですが、御野小の南東には、長さ120mほどの、奇妙な土手状の土の塊があります。  古い時代の旭川堤防(自然堤防か人工物かは不詳)の名残であると思われます。  

  次は、「旧・弘西小学校」です。  これは、別の記述目的で、少し触れました。  位置は、敷地の西辺をX=+6の里境に接して居ると理解されます。  敷地は、南北展開タイプですが、南北/東西ともに、7~10mほど小さ目かもしれません。  が、事実上東辺は、X=+7、南辺はY=-10 のラインに接していると言えます。  敷地がゲージに較べて小さめなのは、この辺りは岡山城の外堀域で、北隣は、「番町・武士屋敷」として江戸期に区画整理が行われたと推定されるので、それらの影響を免れていないと理解しておきます。

  「旧・南方小」(大正12年(1923年)分離)も、幾らかゲージが不正確です。
  「弘西」の場合のような理由を2~3挙げることは出来ますが、坪線との関係を概観しておきましょう。  東西に長い標準スタイルで、北辺/南辺がY=-8/Y=-9ライン相当、西辺が「西川用水」に接しているので、これはX=+2 ライン相当です。  幼稚園との譲り合いも複雑ですが、東側の公園用地になっているところを併せると、キッチリ2つの「坪」の上に立地していると言えそうです。
  厳密には、東辺が20mほど退いている(?)。  また、戦前の敷地は南北に長かったようです。  南側(法務省敷地など)と北側(元・国立病院敷地)などと総合的に考えるのが宜しい。 [06/01/21 追記]
  北 方面の6校を巡ったところで、それぞれの設置基盤を改めて、記しておきましょう。 伊島は「伊嶋村」に依っています。 「伊嶋」の起源は、おそらく、それより古い『津島(嶋)郷』・『伊福郷』を受けているのは疑いないでしょう。 三門/石井はそれぞれ旧村名によるのでしょう。  御野は『御(三)野郷』、弘西は『弘世(広瀬/弘西)郷』を受け継いでいます。  南方は、いくらか新しく・小さい行政区域の名前であろうかと思われます。
註記] 弘西小学校の敷地については、「出石郷」に属すという先達の意見もあります。  つまり、「弘世郷」と「出石郷」は里境(Y=-12)でキッチリと南北に分かれるのではなく、弘西小を含む「南北2丁X東西3丁=6坪」は出石郷に属すという見解です。  筆者には、的確な材料がありません。

  南方面へ行きます。  「旧・出石小学校」(大正3年(1914年)分離)も幼稚園とのやり取りがありますが、東西に長い標準型で、東の公園地を併せて、丁度2坪の上に立っています。  『出石郷』の名を受け継いでいます。

  「旧・深柢小学校」は、今の「仮説」に当てはめるには不規則な形です。  面積は、やはり標準的な広さのようですが、城下町の影響を避けられない地域で、かつ戦災以前の状況を確認する必要がありましょう。  なお、北辺/南辺が坪線相当であることは言えそうです。

  「旧・内山下小学校」は城の敷地にあるので議論の対象外とします。

  「鹿田小学校」の敷地については、この近辺でメッシュが崩れているので、(鹿田の荘の議論も含めて)、パスしましょう。

  その余の小学校については、坪境のメッシュが大きく乱れていたり、メッシュを議論できない地域にあります。  なお、「大野小学校」については、幾らか例外的なサイズ・形ですが、乱れたメッシュに囲まれているのかもしれません。

  以上のの検討を経て、『創立の古い小学校の敷地は、多くの場合、三方を坪境に囲まれている』という仮説は当たっているようです。
  仮説が当たっていることに得意になっているのでなく、里線/坪線を認定する援けになりそうだということが言いたいのです。
  また、「石井小」の例で見たように、仮説に当てはまる配置では、ほぼ必然的に、敷地が坪境線を遮ることになっているので、「線」を遮断した名残の「構造物(石井小の例では通用門)」が認められる可能性があります。 (「伊島小」の場合もこのケースに当たります。 06/02/02 別記)
  

M31年地図 0

  これまで何度も、「明治31年(1898年)地図」について述べました。  この資料について、少し詳しく触れておきます。

  資料の正式名称は;-
日本帝国(陸軍)陸地測量部地形図 「御野村」および「岡山」[明治28年測量/同31年刊行] です。  縮尺は1/2万 です。

  正確に書くと、私の手許には、この地図の刊行物あるいはその一次コピーがあるわけではありません。  もっと正確に書くと、今から20年ほど前に別の目的で第一次コピーを手に入れて、丁寧に読んだことはあります。  ファイルの中に残っているはずが、「岡山」の残滓だけが残っていて、より引用頻度の高い「御野村」は見当たらないのです。
  今参照しているのは、先達たちが引用刊行された(実寸でない)ものです。  刊行物の所在は、少なくとも、岡山大学で確認されています。  他の地域をも含んで相当な枚数が、「旧・第六高等学校蔵書」の朱印を捺したものとして引き継がれています。
  岡山市や岡山県の保管物があるかどうかは確認できていません。

  リアルタイムの現在に至って、それらの地形図を基にした「計測」を開始する時期に来ていますが、実物の入手をどうするか思案しています。  このような作業では、可能な限り原本に接近するのが鉄則ですから。
  先達を非難する積りはありませんが、縮尺が明確でない/地名などに新漢字での貼り直し(横書き調整)がある/などは、「一部改変」と記してあっても、情報量の欠落が恐ろしいからです。

  あっ、地形図のタイトルは「村野御」/「山岡」なのです。  念のため!  さらに、「野」の字はこの字体と旧字体(「堅」に似た配置の)が混用されているのです。

長い道

  ODM(岡山市デジタルミュージアム*)のボランチに行って、与えられた作業の傍ら、作業場の5階の床一面に大きな航空写真が展開されているので、「道」 の調べをすることがあります。
  *)筆者の個人的な習慣は、「ディジタル」でないと、スワリが悪いが、固有名詞だから「デジタル」と表記しておきます。

  今日、そこで、気が付いたことを記します;-
今日の話題は、「長い道」(長いライン)です。  現場でも、リアルな地図でも、Web地図であっても、「長いライン」を探る習性が付いてしまっています。  確かに、長い一本の(一本続きの)道は魅力的でしょう。  しかし、それ以上に、「人工構造物」や「地形要素」に遮られてもシブトク連なっているラインを見つけると心躍るものです。  そのようなラインを無理矢理に繋ぐのはある危険を伴いますが、総合的に見て、合理性があれば、かえって説得力が増すからです。

  そのような例を4つ見つけました。  正確に言えば、一本は、「再発見」以外の何物でもないけれど。
再発見の方から書くと、クリスマスの日に「小さい小さい道」と書いた中に、X=-12 の里境であろうと書いた道があります。  そこでは、「南は『京山山塊』に阻まれて」 と、南の方の言及を避けました。  今日、ODMの航空写真地図を見て「京山山頂」に眼が行ったとき、そのラインがはっきりと見えたのです。
  「明誠学院(旧・真備女子)」の入り口付近の、虫垂(盲腸)のような短い道の先に「京山山頂」があるとすると、ラインは、ずっと南まで走って、少し乱暴ですが、相模川サインに繋がらないこともありません。  全延長は、4.7km程度に及びます。  ただし、ここまで伸ばすと方格格子が完全ではありませんから、余り拘らないのがよいでしょう。

  話が少し飛びます、X=-12が見えたついでに、西そのに X=-17のラインが読めます。  これは既に、操車場を横切る話として書いていますが、北にも300mほど(強引には500m)伸ばせるかもしれません。  南は「下中野」辺りまで伸びるように見えます。  途中に「操車場」があり、「大元中央公園」がありますが、この場合は、それらがあることは却って、妨げにはなりません。

  次に、「京山山頂」に立ったとして、東に眼を転じます。  山頂から東に向かうラインが読み取れます。  切れ切れで、全長も短いが、一旦読めると重要なラインです。  「野球場」 の東の 「観音寺川用水の東西流路」 の部分やJR山陽本線「平畦踏切」 についてはどこかに書きました。  これは、Y=-4 のラインと言えます。  ラインの部分的な蛇行もありますが、東は広瀬町に至ります。
  ここまでくると、筆者としては、『京山山頂が全ての座標原点?』の仮説を掲げたい誘惑に駆られていますが、それには周辺の客観的状況を積み重ねる必要がありましょう。

  京山山麓には、伊島小学校があります。  その敷地北辺は、Y=-4 のラインに接しています。  厳密に言えば、「幼稚園」が合併立地しているので、北辺は、今では曖昧です。 (創立時は、幼稚園がなく、北辺全面が接していたと理解しておきます。 また、南辺はY=-5、東辺はX=-7のラインに接していると読み取れます。  この南北道は、帝国陸軍地形図にも重要な路として明確に記憶されています。  X=-9 のラインは京山山麓の影響を受けていますが、敷地の西辺はこのラインから20間ほど東に引き下がったところに引かれています。  敷地は、「1坪」と2/3程度になります。   
  これらのことを見ると、『古い小学校敷地は坪境に囲まれて創られた』という仮説が出てきます。  この仮説は興味深いので、これからリアル地図で調べて別稿で書きましょう。

  この稿の最後の話題として、Y=+4のラインについて記します。  「京山山頂」から北進するラインが、北の山の影響で消えるときに東西ラインに T 字状に接続する(@明誠学院入り口)・・・ この東西ラインが Y=+4 と認識されています。  これにも、断続がありますが、およそ2キロ半の長さを持ちます。  一番大きい断続は、現・岡山大学(農学部)の敷地によるものです。  農学部農場/旧・岡山気象台用地には遮られるのは免れています(旧・気象台が南面していた道路はこのラインの20mほど北に「新設」されたと言えるでしょう)。  旧・教養学部敷地の外側(南)では、旧・北富地区の集落に飲み込まれますが(2丁=200m ほど水路だけが残っている)、法界院駅の東西で、一本の線を描いています。 東端は旭川河畔に至ります。  ここには、式内ではないかも知れないが、重要な地域神「御崎神社(オンザキサマ)」があります。  
  このラインの西端にも興味は尽きません。  西端は、「岡山商科大学」の入り口で笹が瀬川河畔に至ります。  平安時代の渡川場はここから約1km北にあったと信じられていますが、かなり早い時期に、この西端に架橋がなされたと推測されます。  今は、西の集落の名前を冠した「首部(コウベ)橋」が存在します。
  この西端部分もまた、「道フェチ」が嘆声を上げる状態です。  「路の遺跡状態」 とだけ書いて、それ以上文字にするのを止めておきましょう。  現地をご覧下さい。

読み取り誤差 2

  Web地図の読み取りと、国土地理院の表示の間のチェックをしていませんでした。(一時中断していたのを再開、文脈を少し改訂しました。 06/01/25)

  1/10000 地形図「岡山」の経度緯度の適宜な交差点について、Web地図上で相当点をクリックして、読み取る実験をします。
  例えば、この地形図[平成2年版]の東南隅近くに、(34.65000/134.954167 = 旧・日本測地系)の地点があります。  行政地名では、門田文化町2丁目3丁目の境、奥市運動公園から南進して東山峠に向かう辺りです。  Google 地図を読み取ると、異なる値が得られます。  距離にして、数百メーター(a few hundred meter) に達します。  それは、google 地図が基本的に GPS に準拠していて、これが「世界測地系」が基準になっているからです。

  このような経過ですから、この稿の執筆は一時中断していましたが、再開します。  話を本筋に戻すため、数値を経緯度角で議論します。  まず、上で述べた地点の本日(06/01/25)時点での読み取り値は、
  北緯  34.653245 度= 34度39分11.682秒 (+11.682秒) [+11.64秒]
  東経 133.951548 度=133度57分05.566秒 ( -9.434秒) [ー 9.59秒]
が得られました。 カッコ内の+、-は紙地図(旧基準)の数値に対してWeb地図(新基準)の数値の多寡を示しています。  なお、秒角で小数点以下3桁表示していますが、クリック誤差は2桁目に「2」程度ありそうです。
  「岡山」の左下隅には適切な標的がなく、誤差の混入を考慮すると、詳しく調べる意味が乏しいので、上の左右の隅について同じ作業をして結果だけを示しておきます。
 <右上隅>
  北緯  34.694891 度= 34度41分41.608秒 (+11.608秒) [+11.62秒]
  東経 133.951482 度=133度57分00.335秒 ( -9.665秒) [- 9.59秒]
 <左上隅>
  北緯  34.694891 度= 34度41分41.608秒 (+11.606秒) [+11.61秒]
  東経 133.888986 度=133度53分20.350秒 ( -9.650秒) [- 9.57秒]
  ここで、行末の [ ]の中の数値は、国土地理院が公開している「差分値」 です。  クリック結果が適切な値を示していることが判ります。 06/02/01 追記

  なお、ここで言う「世界測地系」が人工衛星に依存していると言っても、天文学で言う「天文系」とはまた異なるのです。  わが国の経度基準は、明石市立天文科学館に置かれていますが、この場合の東経135度は天文系に依るもので、どちらの「測地系」でもジャスト135度ではないのです。
  科学館の Web 情報では、旧・日本測地系/世界測地系(新・日本測地系)の東経135度は、天文系の135度の「西側」およそ370m/120mにあるそうです。  つまり、(この近傍だけで言えることですが)両者の差は約250mで、経度差に直すと約 27/10000度 = 9.9秒角です。  つまり、旧・測地系で描かれた地図上の標的を、新・地図上で見つけてクリックすると、それだけ「若い」数値が表示されます。
  また、改正・測量法施行令[2002年]に依ると、東京麻布台の原標の読み取り値は、東経133度44分40秒5020 が 同28秒8754 に変更され、北緯35度39分17秒5142 が 同29秒1572 に読み直されます。  つまり、東経に関して言えば、(この位置では)11秒角強 だけ「若い」値になったのです。
  細かい議論を避けて良いものならば、「岡山」で得られた結果は「東京標準」/「明石」 の結果と充分整合していると結論付けられます。 <何度も書きますが、新/旧の変更値(差分)は全国で一定値ではありません。>

  しかも巷間では、日本の測量法法が2002年に改正されたのを受けて、google(日本)が 05年12月から、新・日本測地系(JGD2000)の、しかも最新バージョンに、合わせたという情報が流れています。  事実、05年10月下旬の読み取りと、06年1月上旬の読み取りでは、誤差を越えたズレが見受けられる場合があるのです。 <このことの深い議論は、今となっては、必ずしも建設的でないので、深追いしないでおきます。>

  地表の「絶対位置」を指定するのは、このように、非常に困難なのです。  ただし、高々10km角の空間で、「相対位置」を問題にする限り、測地系の差異に悩むことはありません。  今の WorkShop では、ワンポイント測定で2~3mの誤差を許容し、平均値で1m以下の精度を諦めているからです。

発掘結果 0

  埋蔵文化財調査、早い話が、発掘成果についても順次書いてゆきます。

  発掘の報告書は実に詳細に書かれていますが、一般的には、その位置を緯度経度に直すのは困難です。  ここでは、中でも、判り易い例を示します。
  「津島遺跡を探る2」(岡山県教育委員会 2001年)の裏表紙にいわゆる「桃太郎スタディアム」の平面図があり、同書のp27に「大溝」の図面があります。  前者のコピーを示します。

  MomoStadium40.jpg


  ここで、赤字のAで示したのは、Y=0 ラインで、「岡山放送KK」の南門前を横切る里線と考えられます。  Bで示したのは、この図では西方面が判り難いが、Y=+1 の坪境線と思われるものです。
  青字のC(Canal)が、発掘された「大溝」の南端を示しています。  この北側に、南北幅10m程度で横たわっています。  発掘記録では、「最大幅12m」。
  もう少し直感的な表現をすると、青字の矢印の先に、平面図では「欠け残った櫛の歯」のような突起に描かれているのが試掘ピットです。  その下端(南端)が溝の南縁で、そのピット2幅分ほど北に北縁があると理解してよろしい。
  1)(岸壁が崩れたと理解しても)予想以上に幅が広い。
  2)矢印Aの「道&南側の用水(併せて 目測5~6m)」と比較して、2倍程度の幅を持っている。
  3)「大溝中央線」と地表の「用水の南縁」が一致する配置になっている。
  4)「1坪」北の小径の関係を図から読み取ると、「溝中央」から102~105m北に位置する。
  5)矢印Aと矢印Bの間の距離をWeb地図で読み取ると、95m(最大98m)の値が得られる。

などが読み取れます。  これらの結果からでは、基準ラインを「大溝」中央に考えるか/北縁か/南縁か の詳細な検討は先に延ばします。 しかし、単体ごとの読み取り精度を考慮したとき、相互の矛盾は誤差の範囲に収まりそうです。
  なお、上記の 「 5)」は109mゲージを採用するときは厳しいが、Y=+1ラインは、この近傍では5m程度蛇行していることを考えれば、許容の範囲とできるでしょう。

  この「大溝」の約1km東方に「藪ノ内の大溝」が発掘されているので、その資料を解読中です。

==
  今は、南北線を論じていませんが、上に掲げた図で、「岡大南北道路」の南端が表示されていることは、オマケの情報です。

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  日を改めて、[06年1月14日]書き継いでおきます。  「桃太郎スタディアム(予定地)」の下から掘り出された「大溝」は、実は予測されていました。  同じ、岡山県の報告書シリーズに依ると、その西方およそ50m/200mのところに、試掘トレンチT11[1998年]/T13[1998年]があって、その両方で、狭い幅の東西溝が発掘されています。  いずれも当時、「条里溝」と理解されていました。  3ポイントは、充分な精度で、東西方位の上にあると報告されています。(筆者は未だ報告図面を計測してはいません=>「発掘結果3」参照)
  県の報告書に依ると、これらの3ポイントを結ぶラインは「武道館」の市女笠ドームの先端の僅か[描線幅程度の差異で]南を通ると報告されています。  西に進むと、地表の遺構「通用路&用水」に繋がります。

困らされたこと

  論争する積りはありませんし、非難する意図もありませんが、筆者が初心者として、困らされたことを書き留めます。

  市や、県や岡山大学の発掘資料は重要で、参考になるものです。  ですから敢えて書いておきます;-
  手許に、「津島遺跡を探る2(吉備文化財センター)」[2001年]があります。  そのp27の「条里区画線」のゲージは余りにもズサンで、後進に誤解を与えます。  つまり、里間距離が720m程度に描かれていて、「2里」で「1坪」分だけ、「外」へ広がるので、混乱が生じます。  具体的な例を挙げると、「練兵場」北東隅付近の交点の選定は妥当でしょうが、「2里」南の東西ライン(山陽道[万町-三門])が完全に外れています。
  これは、誤差でも、学説上の違いでもない単純な勘違いだと思います。

  なお、この冊子の裏表紙の昭和23年(1948年)[極東軍]の航空写真は多くのことを教えてくれます。  これは感謝です。

新年おめでとう

  「未来新聞」ではありません。  このページを暫くの間だけTOPに置きたいので、BLogの性能を使った、悪戯です。

  新年おめでとうございます。  本年もどうぞ宜しく。  尾針神社の狛犬(高麗犬)です。  平成になってからの新作のようです。

  

    Un    At

色々気づいたこと

  今日の午後の「散歩」で、気づいたことを書き連ねます。  必ずしも結論を急ぐものではありません。

  三門・國神社
  國(国)神社が、条里の基準になっているという言い伝えを聞いたので、確かめてきました。  地図の上でもわかることですが、東西線(Y=-11)の上にあると言うことは可能なようですが、X=-14の上にあると言うには、15~20m西にあって無理なようです。  なお、お宮は標高40m弱の丘の上の南側に展開しているので、東から明確に望むことは難しいようです。
  ここでは、JR 吉備線の「三門駅」当方の踏切「宮前」を X=-14 と認定するのが無理がないようです。  実地でもそれが確認されました。

          0601miyamae24.jpg


  「宮前踏切」の岡山駅側には、短い間隔で、4つの踏切があります。  名前は必ずしも特徴的と思われないので一々挙げませんが、X=-13、-14、Y=-14、-15 のライン上にあると判断できれます。

  石井小学校の運動場門
  岡山駅西の石井小学校の敷地は、北辺を Y=-14 のラインに接していると判断して間違いないと思われます。  南辺には、幅15~20mの民地を挟んで Y=-15 相当の道があります。
  既に、石井小学校の運動場の真ん中を X=-6 の里線が南北に貫いていると認定しました。  北側には、「開かずの門」があることを書きましたが、延長線上の南側にも「開かずの門」がありました。  ここから、更に南へ、100m強の長さ、道を辿れます。  この「貫いている道」は、南/北いずれも、道半分暗渠半分の構造のようです。
  運動場には、更に、東向きに「開かずの門」がありました。  この門の拠り所を強く求めることは今は止めておきます。

  尾張神社本殿
  式内・尾張(尾針)神社のことは他にも書きましたが、その拝殿か本殿が X=-6 のライン上にあることは地図で判っていました。  筆者自身は現地に土地勘があるので、頭の中では驚きませんでした。
  現場を踏んでみて、本殿がライン上にあることを確認してきました。  X=-6 の里線ラインが西に尾張神社、東に伊勢神社を持つことは気になっていることです。  まだ特別な結論を示す積りはありませんが、幾らかエキサイトしました。  なお、この神社の境内全体が標高20m程度の丘(京山の裾部分)に展開しています。

  奉還町南側の町割り
  今日は、岡山駅の西側から北に向かって、かなりの範囲を自転車で走り、また、降りて歩きましたが、奉還町2~4丁目の南の東西に長い短冊状の町割りに、特に、眼が行きました。  このことの検討は、将来の課題です。  「歩割り」と関係があるのかもしれません。  人場所を改めて、先人の記述を学びましょう。

狭い狭い道

  ODMの仕事始めの帰りに、「伊福郷」 のど真ん中にある、「気になる地域」 などなどを調べてきました。

  「ノートルダム女子大」 敷地の北西の「観音寺川用水」を越えた辺りの150m角ほどの町並みは、周囲に較べて、複雑怪奇です。  地域史を調べる必要がありますが、筆者は、これには3つほどの条件を想定しています(仮説)。
  1)条里制以前から、「伊福郷」 の中心集落であった。
  2)中世に河川(原・観音寺川)の氾濫があった。
  3)江戸期に特別の役割を与えられた?
しかも、これらは、いずれかで一つではなく複合的に働いたと仮定しておきます。

  ともあれ、現地を歩いてみて、
 A)この地域の東端の線が、漸く、X=-4の坪境の姿を止めていること。
 B)この地域の中央やや西を南北に貫く道(長さ約80m)が、10~15m東にずれているが、X=-5 の坪境の代償物であること。
だと理解できました。

  先達・永山卯三郎氏の「条里遺阯」図では、この地域に『本村上』、『同 中』、『同 下』、『村後』の坪名が収録されています。  また、「明治31年(1898年)帝國陸軍地図」 に依ると、この位置には現在の迷路のような街路を思わせるような形の集落が記録されています。
  別の日に、その集落の中を自転車で走ってみた。  またまた、細い路地を見つけて80mほど進んだら、行き止まりで、「自転車が方向転換できない幅で」、難渋した。  それはさておき、この集落は、昔ながらの門構えと中二階を持つ農家作り10%、門構えを留める改装住宅10%程度で、どこかに昔日の面影を残すものを併せると、およそ半数が100年前の姿を残していた。  県都の玄関駅から直線1kmの中に存在する、「明治村」!

  更に、「独断と偏見」との誹りを承知で書くならば、この地域の南西に、2本の道(あるいは用水跡)を見つけました。  場所を別の方法で表現すると、「清心大学」と「県立工業高校」に挟まれた正方形状の地域が 「観音寺用水」 で切り取られた三角地域内(北西部)です。
  結論を先に書くならば、それらは[a]X=-6と、[b]X=-7の里/坪境の一部と理解されます。  道[a]は、北端で漸く幅が120cm程で、南端の部分は、自転車を押して通ると、ハンドルがツッカエます。  ほぼ、直線の南北道(長さ70m)で、小さいクランク曲がりを介して、更に南に80m辿れます(これは幅2m弱)。  道[b]は、小さいクランク曲がりを含めて、南北80m程度ですが、溝を埋めたもの(あるいは暗渠)のように思われます。  かなりの部分が、周囲の平均レベルより、20cmほど低いのです。

  「両手を広げてツッカエル幅より狭くて、歴史的な生命を保っている道は坪線の候補である」 というあたらしい 『法則(仮説)』 を提示しておきましょう。
        
    060106narrow32.jpg

プロフィール

ラスカル君

Author:ラスカル君
ブログ『極道』へようこそ!
予測を裏切る可愛い顔ですみません。
大昔、某私大の学生さんが、更に
20年前を想像して書いてくれた、
『Y教授の若い頃』

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