FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

見えたら見えてくるもの

  一本のラインが見えると、今まで見過ごしていたものが突然見えることがあります。

  2つ前の稿で、X=+5の線上に「ベネッセ本社」を『発見』したことを書きましたが、ベネッセの街区から110m南にスキップした南に、約110mの細い細いラインを見つけました。  あるいは用水単独かもしれません。  皮肉なことに、私の買い求めている1/1万 地形図では、ちょうど山折の線と一致して擦り切れが始まっています。

  急いで、1/2500 岡山市域図を調べます。  地図で見る限り4~5mの単独道のようです。  また現地を歩きましょう。
  長さが僅か110mで、大騒ぎするような代物ではありませんが、その先に道幅を少し広げて約80m続き、裁判所敷地や寺に遮られて、そこを過ぎるとまた400m余り辿れます。  「県道美作線」の一本西(約25m西)です。
  このラインに意義は、「番町界隈の江戸期の再開発」を潜り抜けて生き残っている可能性にあります。
スポンサーサイト

南方・津山線沿線

  橋梁と踏切の踏査結果を述べます。

  結論を先に述べると、JR吉備線での「地名収集」成果に較べて、得るところは少なかったと言わねばなりません。  つまり、踏切名は駄目押し状態で、写真収録でした。
  橋梁(開渠)類については銘盤がないものが殆んどでした。  僅かに、「座主川橋梁」の写真収録と、以前から懸案になっていた「踏切の化石」の確認が大きな成果でした。
  この化石は、「こどもの森」東方で、「坪線」の中央線に位置しますが、事実上閉鎖された踏み分け道でした。  ただし、両側に溝付きの畦道が残されていて、東側は舗装されており、西側は新築の家の鼻先では、丁重に整地されていました。 溝には「鯉堂 開きょ」が架かっていましたが、名前の由来は不詳です。

  追加的には数箇所で、「旧町名」を表示するアイテムを写真に収めました。  例えば、町内会設置の「消火器」に付された旧町名です。  せいぜい戦前か敗戦後にしか遡りませんが、これは新しい着目ポイントです。  従来は「町内掲示板」の旧町名に眼を向けていました。

    minamigata16.jpg
 南方中道町内会

  新規の町名の発掘ではありませんが、琺瑯看板収集者にはタマラナイ「旧町名表示」盤を写真収録しました。  詳しいポイント、たった20文字で説明できますが、教えることは出来ません。

    m_kanban16.jpg

  琺瑯町名盤「南方」

歩けば見えてくるもの

  何度も同じことを書きますが、歩けば見えてくるものがあります。  風は少しあったが、穏やかな気温だったので、また輪行しました。   大きい目標としては、津山線北方界隈の踏切の駄目押しと、橋梁(開渠)の調べでしたが、「細い道」 の探索も目標にありました。  結果、2つのものを見ました。

  まず、「細い道」のことを書きます。  この2~3日、道の間隔の数理解析をしていました。  結果を書いていませんが、「予想通りの成果は得られた」けれども、「予想を超える成果」は得られませんでした。  チョット、小さいデッドロックです。  ある意味で、予測した事態です。  そこで、非常に直裁的な奥の手を思いつきました。  今日の探査のコースにはその対象物がある!

  以前に書いた、「自転車で入ると方向転換できない道」です。  津山線の直ぐ東にほぼ並行して走っています。  X=+5 と思われるラインです。  その西、X=+3がやはり「細い道」で、実質220m分が完全に併走しています。  勿体をつけずに、手法を述べると、その間隔をWebの中で、計測しようという試みです。  で、下見のコースを組み込みました。  記憶に違わず、凄い道でした。  幅は1mを少し切っているでしょう。

  ところが、収穫はそのようなことではありません。  道幅の90cmを写真に収めていたら、視野の中にベネッセの本社ビルが納まりました。

    m_fukutake32.jpg
  道の正面笹の向こうに福武ビル

  この下には、「坪境」の用水溝が発掘されています。  少なくとも、このラインは2m以下の誤差で地下の「溝」を指し示すはずです。  計測結果は直ぐにアップします。  一旦閉じます。

  約80分後:  Web地図の計測と、1/2500 岡山市域図の実測結果を記載します。  結論的には、平均操作の後 1坪の長さとして111.3±0.9m が得られました。  定説の109mからすると、やや長い値です。  この岡山市域北部では、他の評価例でも、この「長め」の傾向は認められます。

  データのバラツキや道の傾きの傾向を見るために、実データを示すと、北からほぼ50m間隔の読み取りで、次の表が得られます。

   Web    紙地図読み取り
  112.8m   112.3
  112.2    112.5    
  112.8    111.0
  110.4    110.1
  108.9    109.9

Web/紙地図のいずれをとっても、「逆台形」の傾向が見られ、この手法の限界が見えます。  が、概ね満足すべき結果です。

  ここでは、東西の距離の値に換算して掲示していますが、手許には経度の読取値がありますから、後で、その詳細解析も試みます。

  新しい解析の試みについて詳しく書くのは暫く先にして、060301の解析結果だけ示します。  坪線間距離として、北側の一坪からは平均値112.6mが得られ、南の坪からは平均値110.0mが得られました。  何が何でも「平均値」を求めるのが良いか否かは別項で考察します。

古代尺の検証

  このBLogの目的は、遡って「条理探求プロジェクト」のモーティヴフォースの一つは、「古代尺」を検証することにありました。

  フィールドワークが大分進展したので、数日前から数理解析を始めています。  結果は後に述べるとして、動機や手法について考えを纏めておきます。
  一番最初は、ごく単純に、「条里メッシュ」を丹念に読み取っていけば、その最大公約数として、「1尺」が決まると考えていました。

  ここで、話が大きく逸れますが、在職中のライフワークについて記しておきます。  所詮、一物理学徒の仕事ですから、自慢話でも何でもありません;-
  簡単に書くと、「3万光年離れた双子星が回転しながら放射する、微かな信号を測り、膨大なノイズの中から信号の法則性を示そうと試みた」と言えましょう。  光が(電気信号が)3万年かかってやってくるような全現象を、約2.4時間の周期に分解して、その内の特定の12分間に特異なものがあることを検証(しようと)します。
  言い換えると、コシヒカリ1俵の中から3~5粒のアケボノの米粒を見つけるような作業です。  10年続けると、俵は20個ほど溜まると思って下さい。  見つけ出したいのは、コシヒカリの中の石粒でも、インディカ米でもないのです。
  こんなベースに立てば怖いものは何もありません・・・と思ってスタートしました。

  幾らかの試算もして、数理解析技術の問題はどうにかなると思ったところに、2つの大きな問題が発生しました。  第一の問題は、物差しに関する学界の定説が、多分ないことです。  それはそれで良いのですけど・・・  つまり、「教科書」には、『条里のゲージは「約109m」で、これは、360尺に相当』と書いてあります。  これは、ハテナ? です。  計算が合う合わないの議論がないわけではありませんが、条里の施行年代に直結させることを急いで議論が破綻している例まであります。
  具体的に書きましょう。  正倉院の御物などを参考にするとき、天平・奈良の国家基準(公尺)を29.66±0.03cmと想定することは一応確定しているようです。  土木現場でこの物差しが使われたとすると、360尺は109mには2.4mほど足りないのです。  109mは約368尺に相当します。
  これを凌ぐには、二つの説明がなされるようです。 一つは、土木現場では「民尺」として、つい戦前まで公式尺であった「曲尺(かねじゃく)」が1300年前に普及していて、それに依ったと言う説。
 二つ目には、同じ正倉院に「天平尺」と理解されている(最近の学説では「南宋」製の追納品とする)尺に最長で30.7cmのものがあるので、過渡的に30.3cmがあっても問題ないとする立場。
  筆者は、どちらも苦しいと思います。  素朴に始めたことよ! と自分にあきれながら、この混迷を見ると、「尺の追求」も的外れではなかったと思います。

  次に大きな問題は、既にどこかで書きましたが、「道&用水」は設計数値に予め組み込まれているのか? 後から捻り出されるのか? という問題です。  この議論に付いての筆者の認識は、ごく最近に「予め組み込まれていたかも知れない」とする議論が芽生えたと考えます。  藤原京、平城京などの復元作業などの中で、都市工学の人の参加が進む中で、新しい視点が育っているように思います。
  只今では、そのところに筆者の重点が移っています。  これはもっと根源的な問題ですから、これを解決しなければ「古代尺の検討」には進めないからです。

  他方で、「農耕地/畦道」ではなく、「道路」の観点からの見直しも進められ、「条里余剰帯」の概念や実際の発掘事例が出始めています。  その「美味しいとこ取り」をすると、クニの間の往還道の例では『江戸時代の「街道」の幅は2間程度、古代の「大道」は15丈=45m』は極端だとしても、『発掘事例では6,9,12,18m(最大公約数10丈)が認められている』[いずれも木下良 2001年]と論じられています。

  県営グラウンド・メインスタジアムの「大溝遺構」の計測例では、
発掘幅最大12m、最痰0mで、同じ延長線上で発掘幅10mと記載されています。  いずれも、後世、「溝」が埋め戻され「道」に転用されたと理解されています。

  この課題は、結構困難な課題です。  積極的に発掘のための発掘をするのならともかく、地表遺構から推測する限り、コシヒカリの中でアケボノを探す作業に限りなく近いのです。

再び、短い鉄橋

  三門駅と大安寺駅の間の短い鉄橋を確認してきました。

  先の稿で、「用水を跨ぐ短い鉄橋の名前は面白い」と書きました。  特に、「石井中学校区」のこの辺りでは、未だ、条里のライン(用水)が山裾に消え入る直前ですから、JR吉備線との関係は興味深いものがあります。

  「開きょ(渠)」と表記されるものでは、「下寺田」、「上寺田」、「前川」、「西十四ノ坪」の名称が採取でき、「上西六ノ坪橋梁」を記録しました。  前の3つの名称については確認できませんが、後の2つは明らかに条里の「坪」に由来すべき名称で、永山・条里図を引証すれば説明の付く位置にあります。
  なお、「上・西六ノ坪」のように「上/下」の文字を冠する事例は約700m東に「下・中八ノ坪」例がありますが、筆者には解明できていません。  仮説として、用水が「坪境」を流れる場合にはいずれかの「坪」に属せしめて、「上/下」を名乗らせている・・・ と理解しようとしています。
  具体的に言えば、この場合、西から「西五ノ坪」、用水、「西六」の順に並んでいます。
  改めて、「下・中八ノ坪開渠」の例では、西から「中八ノ坪」、用水、「中七」と並んでいます。  西を「上」、東を「下」と呼ぶならば、「西六ノ坪の西」、「中八ノ坪の東」には違いないのです。
  瀬戸内/太平洋側では、北を「上」、南を「下(しも)」と呼ぶ例は馴染み深いので、疑いなく使いますが、上記の理解にはいささか躊躇いを残します。

  ともあれ、開渠(橋梁)の名称の収穫があったことは愉しいことです。

細い道 5

  三門小学校の東の空閑地が気になっていました。  中庄・双子に用事があった、この物好きの爺さんは、往きの車に折りたたみチャリを積んでもらって、そこから2時間弱で還って来ました。

  三門小界隈の鉄道施設と、小学校の敷地周辺を検分するためです。  「鉄道」のことは後にして、まず、三門小の東の細いラインについてです。  JR吉備線の「備前三門駅」の東の「三門東踏切」を北から南に横切ると、直ぐに「石井中学校」の西辺の道を通ることになりますが、車が通れるのは約110mです。
  その先は、長さ約40mの、自転車も通れないほどの空閑地でした。  「三門小」のブロック積みの塀に沿って、本当は約70mの踏み分け道が続くのですが、「立ち入り禁止」にしてあります。  恐らく個人的な措置で、公的拘束力はありませんが、今は議論したり告発したりする場ではありません。

        mikado40.jpg


  このラインは1/1万の国土地理院地形図では「用水」扱いになっていて、筆者が想像した通りでした。  このラインの東20~30mに、このラインの補償物の車道がありますから、消え消えに残っているのです。

  これだけでも、筆者の手法に照らすと、本当は凄いことですが、それで終われば、この記事を書かなかったでしょう。
  消え消えのラインの先も面白い光景でした。  結論的には総幅3.5mほどの用水付きの道です。  道の幅は70cmあるかなしですから、「道付きの」と表現を変えるべきかもしれません。  約150mは用水が完全に覆われて暗渠にしてあります。  車の進入は阻止されています。  この辺りから「三門保育園」と「三門幼稚園」の敷地に面しますから、いずれも園児達への配慮でしょう。
  残りの(南の)約170mは開渠・用水と舗装された幅70cmの「畦道」と表現しておきましょう。  自転車の走行を想定していないけれど、筆者は一部分走ってみました。

  その先は、「能登用水」に至ります。  ただ、この付近だけ、能登用水がが例外的に車道を伴いませんから、旨くアクセスできないのでしょう。  この間、細くて長い道は総計440mほどあります。

  帰宅して、1/2500の市域図で確認したら、能登川だと視認した用水は手前の別の用水(やはり東西流)で、その辺りの取り付け状況は、またまた、複雑になっており、再度踏査すべき宿題を残しました。

格子点の読み取り 1

  紙のメモに暫く熱中していました。  もう一つのBLogを更に発展させて、「地域限定販(石井中学校校区)」の教材みたいなものを10ページものに仕立てました。

  Webに戻ってきましたが、格子点の読み取り=>数理処理に進む手始めとして、同じ石井中学校区をモデルにして、「坪境」ラインの交差点の読み取りを始めます。  紙地図(1/2500)の物差しによる実測と、Web地図の経緯度読み取りとのどちらかの選択がありますが、ここではWeb地図で作業を始めます。
  従来の試みを「第0次」と呼ぶならば、今回の読み取り「第1次のVer0」と位置づけましょう。

  石井中学校区をモデル地域に選んだ理由は、この地域では、「操車場」という超巨大なモンスターを除いて、特別に大きい開発をを経験していないので、格子の記憶がかなり正確に引き継がれていると思われるからです。  そのため、「石井中学区」と言っても、「大野小学区」は一応除外します。  また必要に応じて、域外の状況を参照することは言うまでもありません。
  余り広い範囲ではないので、「里境」だけでなく、採用できる「坪境」は出来る限り拾い読みます。

  経緯度読み取りをした後に、「相互の差を取って距離に換算するか」「基準点を別に設定して、そこからの距離に換算した後に相互の差を取るか」の選択があり得ますが、今回は、『基準点を設定』から入ります。
  基準点には、M31年陸軍地形図の「大野村」、「石井村」、「鹿田村」三者の接点を選びます。  これは東から来た「野田用水」が西島田町から野田(五)に至って幅を細める点とし、従来のXY座標表示では、X=-12,Y=-24に相当すると理解されます。
  あくまでも計算の都合から来る基準点ですから、原理的には任意に選べます。  後で修正するかも知れませんが、東西に関しては「道の中央」、南北に関しては「右岸(北岸)」の交差する点とします。  「北岸」を選んだ理由は、上流では川幅が広くかつ両岸に道路が敷設され、下流(西側)では北岸側だけに道路が付けられているからです。

  いま実際に読んでみると、
  北緯:34.657022 度    東経:133.906120 度
が得られました。

大正10年代の資料

  今から100年前が何も判っていないことに気づかされます。  畏敬するY学兄から、大正10年代の市役所の図面の存在を教えていただきました。

  無条件の公開資料ではありませんから、詳しく書く積りはありませんが、ある地域について、田圃の一枚一枚の地番まで判ります。  法務省所管の「登記簿」と対になった、行政役場所有の「切り絵図」に相当するものの、特定用務のための写しです。

  この場合には、当時の道路事情がわかることと、小字名(坪名に大きく関わる)が判読できることです。  永山卯三郎氏の「条里地図」の絵解きには判読困難な文字もありますが、相補的に理解を助けてくれます。

  行政資料は近世の歴史の宝庫で、丁寧に保存されること、詳しい検索システムが作られること、もちろん、適切に公開されること・・・が大切です。

細い道 4

  元々、踏査しようとして出遭ったものではありませんが、現場は歩いてみるものです。   旧の仕事場に行く道筋で、細い路地に偶然目が行きました。  後で気が付けば、通勤の往還に、うんと昔に、一度は踏み込んだ道でしたが、全長用水つきで、これが600m続いていました。  一部分軽自動車が通れるところもあるが、連続300m分は宅地に挟まれながら、事実上畦道でした。 「ゴム長靴着用のこと」の部分もあり、(段差があり)自転車謝絶でした。
  位置は、津島小学校区(津島福居)で、座主川の北に併行する、Y=+8のラインでした。  もう2本北は、源平の兵(つわもの)達が往来したと信じられている、『福輪(林)寺縄手』です。
  学区としては、津島小学校です。

新しい出遭い

  今日は、定例の水曜日で、外出しました。  思い掛けない二つの出遭いがありました。

  一つは、細く長い道で、完全に「再発見」なのですが、存在をすっかり忘れてました。  別稿で書きます。

  もひとつは、またまた、オカルチックナ話です;-  「古尺」の問題はこのBLogの出発点です。  かねてから、古の尺度について「定説」とされるものの根拠が薄いと思っていました。  他のところにも書きましたが、「1尺(奈良期)=30.3cm(曲尺)」と明記されている書籍すらあります。  もう一捻りしたものでは、「『曲尺』は『官尺』に逆らって棟梁社会で1300年守られてきた」と言う説すらあります。  言うまでもなく、「109mゲージ」を説明するためです。

  筆者は、そのことに悩んでいたわけですが、今朝起き掛けに、「正倉院に訊け」と言う声を聴きました。  昼前に、Webで「正倉院 尺」で検索を掛けたところ、由水 常雄氏の『天皇のものさし』にヒットしました。  インターネット購入を試みようとしたとき、「仕事の関係先で買えば!」と言う囁きを聴きました。

  「関係先の生協」の店先で調べたところ、出版社を覚え損ねたので旨く見つかりません。  改めてWebで調べるべく踵を返そうとしたら、「ここだよ!」と呼び止められました。 「麗澤大学出版会」の版ですから一般には並んでいないものでしょう。  奥付けを見たら、2月6日に出版されたばかりの代物でした。  なんと言うことでしょう!?

  内容は、文章作法に問題があって、はっきり言えば半分のページ数で充分書けますが、内容は濃厚でした。  ミステリー仕立てで売ろうとするのがスケベですが、学術的にも内容があると思われます。

  「正倉院の撥鏤(ばちる)尺」(天平)は29.6~29.7cm と結論付けることができそうです。  一つスッキリして、また一つ混迷が深まります。

神社の氏子

  この弧列島に棲む我々は、・・・普通の人はここで、「日本人は」と書くところだが、・・・

  1300年前を眺めていると、「日本人」の定義が揺らいで来ます。  それは、急に「渡来人崇拝」になるというわけでもなく、逆バネの「大和民族凄いんだ 主義」に足場を移すのでもなく、「女性天皇・女系天皇」に異議を唱えるのでもなく、諸手を上げるでもない自分がいます。
  とりあえず言うと、『そのような視座で見ることの無意味さに気づかされる』のです。  1300年昔に、道を創らせ、それを指揮し、それに黙々と携わった人々がいることは確かなのですから・・・  

  ともあれ、仏教が隆盛を迎えつつあった時だとしても、「弧列島に棲む我々」のDNAの中にはアミニズムの血がたぎっていて、「カミ」を信じて来ました。  過去の100年ほどの不幸な心理操作の時代の効果を差し引いたとしても・・・  それゆえ、殆んどの人が、寺に属し、(「ウジガミ」という名の)神社に関わって来ました。
  特に、「ウジガミ」への関わりは、「地域ぐるみ」が基本でした。  文献学的には、今から丁度1100年遡って、『延喜式』と呼ばれる「法令施行規則」に例えられる文書に根拠が置かれると理解されています。

  元来は「ウジガミ(氏神)」のコトバが示すように、同属の集団の祭り神でした。  みんなが、同じ生業に就いているような「村社会」ではそれで充分でした。  しかも、集落がまばらな時代にはそれで問題はありませんでした。  ご一新までは、京、大坂、江戸以外では、それに近い生活形態でしたから、大きいときには「村」がその単位でした。  『村の鎮守の神様』のフレーズがそれを示します。  小さくても、「大字(おおあざ)」がその単位でした。

  話が長くなりました。  このような歴史を背負っていますから、今でも、町内の祭り神の氏子の範囲を地図上に描けば、「村」の境/「大字」の境が浮かび上がって来るはずです。

  つい先日、最近色々と教示を受けているY学兄から、昭和30年代の「氏子区域図」の複写物を頂きました。  はっきり言って興奮しました。  手書きの、縮尺も怪しい代物でしたが、最近頭の中に棲みついている「メッシュ」と端々においてピタッと重なるのです。  頭の中で、モノクロームで描かれていたメッシュに、突然「蛍光ペンの色が着く」のです。
  例を挙げると、「三門・国神社」の氏子域の北辺はY=-12のラインで、南辺はY=-24のラインと読み取れますから、これはまさしく「石井村」の範囲です。  南はY=-24のライン(野田用水)で「鹿田村」に接しています。  東辺は微妙なところに引かれていますが、明治24年(1891年)の「岡山駅」開業の影響を受け、大正10年(1921年)の岡山市への編入で修正されたと理解されます。  西隣の「大野村」との関係で見るならば、「国神社」と「野田・八幡宮」の氏子域の境は村境に一致するようで、X=-12のライン上にあります。
  「大野村」側から見て記述するならば、この村の北辺は「石井村」と「能登川用水ライン」を境として接しており、およそ1300m南の東西線で「今村」と接していますが(M31陸軍地形図)、この辺りで「野田・八幡宮」の氏子域の境が村境と重なることが読み取れます。
  一方で、操車場が拡張されるごとに、村域(氏子域)が蚕食されて行ったのが「VIDEO映像を見るごとく」に想像できるのです。
  「野田・八幡宮」は今では、明示的には、40m角ぐらいの小さい社域ですが、永山氏の「条里地図」に突き合わすと、330m角の(9「坪」の)中に、「宮裏」、「鳥居ノ下」、「宮前」の名称が認定されています。

三門駅以西の踏切

  備前三門駅から大安寺駅までの踏切も全て坪線の上にあることが確認できました。

  JR吉備線の三門駅から西には、6つの踏切があります。  一箇所非公認の踏切状のものがありますが、今は無視しましょう。 名称は東側(三門駅側)から「三門駅西」、「関高前」、「西崎」、「正野田東」、「正野田西」、「大安寺東(駅構内)」で、いずれも坪境のラインで、X=-17、Y=-13、Y=-14、X=-22、X=-24X=-25 の上にありそうです。  最後の「大安寺東」は、この辺りで南北線が乱れていて、30~35m西に「流れて」います。  大安寺領の荘の集落域に達している故と思われます。
  なお、この「流れて」いる道を南に進むと、次第に南に揺り戻して、約500mで、操車場の下に潜り込む地下道(名称不知)へ進みます。  この南北線は「ゲージ」に照合すると、明快なX=-25ラインに相当します。

地下道と鉄橋

  踏切に較べるとグレードは低いが、地下道や鉄橋に書かれた情報も捨てたもんじゃありません。

  地下道の位置情報に意味があることは、しつこく書きました。  「鉄橋」といっても、ガッタンゴットンとまで言わない、軌道の幅とドッコイドッコイの「短い鉄橋」は見過ごしてしまいます。  業界用語では、「開渠」とか、ひらがな交じりで「開きょ」と記される場合があります。  つまり、用水単独のものを鉄路がよぎる場合です。

  今回、2つ「新発見」しました。  いずれも、用水自体は坪境ライン上にあるようには見受けられませんが、「中七の坪」と「下中八の坪」でした。  いずれもJR吉備線の三門駅の東方にあり、「下伊福三踏切」を挟んだ東と西にありました。
  永山卯三郎氏の「条里図」には、当該の場所に、同じ坪名が採録されています。  ただ、「中八」の接頭文字『下』の意味は判りません。  隣接した開渠橋は見つかりませんでした。  単線区間ですから、上り下りの区分けでもなさそうです。

  これまで、存在自体に気づかないで来ていました。  特に、用水単独のものは接近できることもまれです。  存在に気づいて、名称が付けてあっても、気にも留めていませんでした。  上を見たり、下を見たり、外出したら大変なことです。

究極の踏切 3

  京山山頂を望むラインを踏査してきました。  「輪行六十余里」の一項目です。

  2月9日に、高柳と島田の境界線にある「地下道」を調べているときに、ライン上で京山山頂を目撃してしまったのはある種のショックでした。  地下道自体も不思議なたたずまいでした。  で、その南を探ることにしました。  別の幾つかの検証・確認もしましたが、ここでは限定的に書きます。

  まず、大書したいことは、地下道の名称が判りました。  南からの入り口付近の桁に書かれていました。

  24tubo32.jpg
   

「二十四の坪地下道」と読めます。  永山卯三郎氏の「条里地図」に依ると、これは「島田・二十四ノ坪」に相当し、地下道が北から進むとき東に斜行するので、出口の位置を指し示していることになります。  南出口では、20~25m東にずれています。

  南側では、南北のラインは、皮肉なことに、X=-12 に相当するラインとその東50m程を走るラインの2本があり、「南出口」はその中央部に出て来るのです。  並走は、ほぼ1km程続きます。  加えて、1kmほど先の「野田」から「西古松」に入る辺りから南北ラインが乱れ始めます。  それ故、両方のライン上で、「京山山頂」は見え隠れするのです。
  おまけに、この地域はマンションの多いところです。  最初は、操車場内の新幹線高架に遮られて「京山」は見えませんでした。  漸く見え始めても、道が小さく斜行しただけで、マンションなどのビルに遮られ、交通信号気に邪魔され、難渋しました。  気がつけば、「50m東」のラインを移動していました。

  「西古松」より南まで、強引にラインを伸ばす積りはありません。  奈良時代の海岸線に近付いてゆくからです。  ただ、近世の干拓・開発が「条里ライン」を意識し、引き継いだとすれば、「相模川用水」をそのラインと比定することは不可能ではありません。  仮にそうすると、更に約1.5km伸びて、JR瀬戸大橋線に当たるところまで続きます。

  結論的には、X=-12 のライン上で、古代の人は、およそ3.5km先から京山山頂を望み得たということ、近世の人は、およそ5km先から山頂を意識したと言えます。

輪行六十余「里」

  三門界隈から、大安寺に出て、その先で(X=-25のラインか?)操車場敷地を越え、東進して『究極の踏切(地下道)』の南側を確認しました。  今回の大きなテーマは、『京山山頂望遠』でした。

  雨もよいの朝でしたが、押して出かけました。  たくさんの収穫が得られました。  輪行六十余里・・・とは、言うだけ野暮だが、ちょっとしたシャレです。  この場合の「里」は650m程度を指していて、正味4時間で自転車が走った距離です。

  三門界隈では、既に視認していた踏切や、初見の踏切の銘版の写真を撮ることでした。  それは往路で出来ましたが、復路で再びそこを通り、「短い鉄橋」の名称のコレクションが出来ました。  いずれ纏めて書きますが、2つの「坪名」をゲットできました。

  数箇所の、「町内会の公園」に遭遇し、記念碑などの情報を得ました。  戦前/戦後と時期はまちまちですが、「土地整理組合」の記念碑が殆んどです。  その内、「大供西公園」では、施行対象土地の字名が書き連ねてありました。  何かのときに参考になりそうです。

鞍上、枕上

  アートの行事で、県北津山へ行きました。  アートの方では、珍道中になりましたが、・・・それはさて措き。

  90分ほどの列車の中で、先達の参考文献を読みました。  想が幾つも湧き出して、頭の中を整理するのに困っています。  項目だけ書くならば;-
 6進法問題に解決の兆し?  高麗尺の解釈、 溝/道のマージン、 などなど。

  「教材」 としての議論の展開法についても展望。

  やはり、「『調書』を読んで、現場百遍、『調書』を再検討!」のサイクルが必要なのだと思います。  いずれまた。

究極の踏切 2

  12月の末に同題で書きました。

  今日はODMの帰りにその地下道へ立ち寄ってきました。  「その地下道」とは、西に高柳東町、東に島田本町(二)を見ながら南下したら操車場敷地に突き当たる所です。  先ず行って見て、その場には初めて行ったことが判りました。 地下道は、軽自動車さえも拒否する幅でした。  地下道の名称は判りません。
  さて、おおむねのことは、紙上予備調査の通りでしたが、幾つかの発見がありました。  北に辿るにしたがって、道幅も狭く、一部分は民地の駐車場に入って、迂回しなければなりませんでした。  ことの是非は措いて、これが「坪線」(今の場合は恐らく「里線」)であるとする判断を妨げるものではありません。  坪線/里線の吟味以前の問題として、重要な踏み分け道(幅1mあるかなしでも閉鎖できない存在)であることを確信しました。
  もう一つ重要なことは、北に向いて歩くときに、殆んど常時「京山山頂」が視界に入ったことです。  操車場の南に行ってこのラインの上に立って望遠する必要が出てきました。

  このラインのこととは別に、2~3の見落とし[再発見]にも気づきました。  JR吉備線の踏切(平面交差)で岡山駅に最も近いものとして、「下石井踏切」が存在しました。  JR吉備線は、岡山駅を出て、暫く平地を通り、正味で400m程度だけ高架走行します。  東から(岡山駅から)高架に登ってゆく手前にそれがあります。  これを南北に横切るのが X=-5 のラインで、踏切の南で少し斜行して地下道へ導かれます。  地下道の北からの入り口の標記から「桑八地下道」 の名称を持つことも判りました。  「桑八」 とは、桑&八 でも 桑 to 八 でもなく、「桑の八番」と理解され、永山卯三郎氏の 「坪名地図」 に指摘されている名称ですが、位置関係を再確認したところ、困ったことが起きています。  地下道の北からの入り口は、氏の地図では「桑九」の相当しています。(南口は「桑十四」になります)  永山氏の地図では、既に鉄道敷地になっているこの近辺の「桑」の名称を持つ「1里」の領域で坪番号が混乱して居る様子が認められますから、氏の誤認があるのかもしれません。
  「能登川用水」 が 「桑八地下道」 近辺で線路を横切る状況も再確認できました。  サイフォンではなく、通常の開渠の流路でした。
  更に話が拡散しますが、「桑田中学校」の敷地は、永山地図では「桑三十九」と「桑四十」に立地していることになります。

  「桑八地下道」の写真を掲げておきます。 (06/05/27 採録)
なお、この 「桑」名称の『里』は坪の番号付けが乱れており、かつ36を超えて番号が存在する故に、学会の中でも注目されている地域です。 (Cf.岡山県史・古代2)

            20060527174647.jpg

20060527174713.jpg

輪行踏査2時間

  ODM行き帰りに、それぞれ1時間余り、自転車で走り回りました。
  内容は別に書くとして、項目列挙しておきます。 最初に、「岡山商大」西辺のライン(「京山中」 の西辺のラインの一丁西に繋がる)を渡渉しました。  踏み分け道と用水の併設で、自転車を押して、まさしく渡渉するスタイルでした。
  次には、商大敷地の中央の公道を東に行きました。  併行する用水は「新座主用水」と呼ばれています。  その先で、「座主用水」を53号線(暫定併用の古い線)が越える橋の名称(な~んと!津島大橋)を確認しました。 <写真を撮る元気は萎えました S30年供用>

  JR津山線/山陽本線の踏切の呼称を確認しました。  「北方第一」、「北方第二」、「北方第三」でしたが、この名称は適切ではありません。  また、別に論じます。  写真を撮りました。
  「第三踏切」 付近の西川に掛かるコンクリート橋「新橋」の写真を撮りました。

  「気動車区」付近で、JR線を横切る「跨線歩道橋」の名称を探るべく、銘盤を読みに行きましたが、数メートル先にはがき1枚の大きさで判読できませんでした。 また、「旧・万町」 の表示石碑を写真記録に残しました。
  岩田町の町内で捧持している「稲荷」に立ち寄りましたが、写真記録は残しませんでした。

  「下石井踏切」 の存在確認と、「桑六地下道」 の名称を再確認しました。
  ・・・ これだけ走り回って、90分!!

  帰路では、「能登川」ラインを西に走って状況確認しました。  また、X=-12 ラインについて詳細情報を得ました。

  ODMでは、正規スタッフの「Y先生」に沢山の(有形無形の)地図情報と教育行政に関する知見を頂きました。  やはり、実験物理屋風情には太刀打ちできないと思いました。 <「実験物理屋風情」だから出来ることもあるかな・・・と ファイトが沸いたのも事実です>

時計台(岡大)の真裏

  岡大(津島)敷地の裏側で、写真を撮ったり、現場確認してきました。

  先に記した、「銀杏並木」 の北への延長線上の畦道(の痕跡)の上から真南を望むと、時計台の西面のラインにぴったり一致することが判りました。  「銀杏並木」 にラインを戻すと、南北車道の西端(車道と歩道の縁石)辺りに来ることが判りました。

  <1/27記事に写真貼り付け済み>

小学校の敷地 3

  竜之口小学校について、竜之口学区連合電子町内会の HP に依ると、小学校敷地は「条里にメッシュ(一坪分)」 にスッポリ収まっているということです。

  WEB地図に依ると、幼稚園敷地と併せて、南北に長い、「1坪と2/3」 ルールに収まっているようですが、現地がどうなっているか大いに興味があります。
  記憶のビデをテープを巻きなおすと、(数年前にこの小学校傍らを走っているので)「自転車を押して通った記憶」 の映像が出て来るのだが、確信は持てません。

学校メモリアル

  岡山市中央部の統合された小中学校の記録が収蔵されたWEBを見つけました。
  沿革(歴史)が書き留めてあるので、メモを残しておきます。

M31地形図を読む 3

  地元の人が 「師団道」 と言い習わしている(いた)道のことは、既に、どこかに書いていると思います。  県営グラウンドの「桃太郎アリーナ(新・体育館)」に南東から進んで突き刺さってくる道のことです。

  ODM のスタッフの方と話していて、この道が話題になり、もう一度調べなおしました。  これは、M31年地形図(「御野村」)では、そのまま、今の明誠学院下まで真っ直ぐにに走っています。  今でも、この学院の入り口に立つと、この斜め道の正面に南方の「ベネッセ本社」 のビルが見えます。
  実は、このビルの地下からも、「坪境」 と見られる遺構(南北溝)が発掘されています。 X=+5 のラインと理解されています。

        Kusemichi32.jpg



  この斜め道は、当時は県道扱いだったようで、後に(明治40年代初頭に)今の53号線の 「直角曲がり」 の形なり、1921年(大正10年)に「国道19号線」 に格上げになったそうです。  いずれにしても「津山往来」あるいは「美作街道」と呼ばれる53号線の原型です。

  ところが、M31年地形図の 「笹ヶ瀬」 の北辺りには、「久世道」 と刷り込まれています。  いかにも、「落合/久世」 にゆけますが、チョット不思議な表記です。  三十年ほど昔に、地元の古老から聞いた呼称では、「倉敷道」 でした。  この場合の倉敷は 「林野」 の古称で、恐らく途中で枝分かれしていたのでしょう。

  註)岡山県教委の記録に依ると、「1908年(M41)倉敷女学校設立[1928年 県立林野高等女学校に改称]」の記載があります。 06/02/05 追記

小学校の敷地 2

  伊島小学校の場合を記します。  先にも述べたように、この敷地は、幼稚園の部分や後に作られたプールを除けば、典型的な1坪2/3 のスタイルと思われます。

  3つのことに注目しました。  周辺の道路状況/校門(通用門)の設置状況/京山山頂との位置関係(ここ固有の問題)です。

  まず、坪境と関係する校門に関しては、北と南にありました。 つまり、「坪境ラインに開口を置く」 というルール[筆者の仮説]が守られています。  南北の校門の東西位置は、15~20mずれていますが、それぞれに繋がる南北道はあって、その2本は「理想的な坪境」を挟んで、北側は東へ、南側は西へ7~10m「ねじれて」いるように判断されます。

  第2、第3の注目点に応える写真を2枚掲げます。

伊島小北辺東向き

伊島小北辺西向き


  ここで、撮影場所は北門近辺で、前者は東向き、後者は西向きに撮ったと理解して下さい。  余り注釈を加えたくないが、前者では、実に怪しい(妖しい)空閑地が写っています。  幅は2m弱、長さは約30mです。  行き止まりですが、門(鉄柵)が作られています。
  2枚目の写真については、京山山頂がこの位置に望まれることだけ書いておきます。

新測地系への補正値

 新旧測地系の「差分値」を調べてきました。

  街中に出たついでに、K書店で開示されている国土地理院の 「旧・日本測地系」 から 「新測地系」 に換算する 「差分値」 の表を閲覧してきました。  1/10000 の 「岡山」 に関する限り、次の補正表によります。

  北緯 +11.61秒              +11.62秒
  東経 - 9.57秒              - 9.59秒
          左上隅        右上隅

          左下隅        右下隅         
  北緯 +11.63秒              +11.64秒
  東経 - 9.56秒              - 9.59秒

  ここで、「差分」 とは、同じ地点を指示したとき、その位置の北緯/東経の数値について、差分 = 新測地系 - 旧測地系 で与えられるものとします。
  更に具体的に書くならば、現在発行されている「岡山」の左上隅の緯度経度は 34度41分30秒/133度53分30秒 ですから、新しい測地系で現すと、 34度41分41.61秒/133度53秒20.44秒 と表記すべきだと主張しているのです。
  これは全く余談ですが、国土地理院は「北西隅」と表現しないで、『左上隅』 と書いています。  専門的な立場では、一瞬、「日常語を使っている!」 と感じますが、よく吟味すればこの場合は 『左上隅』 が正しいのでしょうね。

  換算表については、1/5万、1/2万5千 については、Web上で公開されています。  06/02/07 追記

  測地系の話題、もうひとつ。  新しく発行された1/2万5千 を1枚買い求めました。  岡山近郊に適宜なものがなかったので、香川の 「白峰山」 にしました。  筆者としては2つほどの理由があります。  第一は、四国遍路・八十一番白峯寺と八十番(国分寺)、七十九番(高照院)が載っています。  <八十二番(根香寺)は欄外15mmのところにありそうです>
  いやいや、話が逸れました。  これに決めたもう一つの理由は、地図面のあちこちに 「メッシュ」 が認められるからです。  ここのメッシュは、山の合間合間に引かれている所為か、方位が定まりません。
  測地系に関する話題が本当は主題で、この新地図(平成17年1月1日発行)は、従来の 1/5万 や 1/2万5千 に較べると、用紙の大きさは変わらないで、余白・凡例枠が減って、印刷面が広がっています!!  そうです。  新旧測地系に対応するため、四方にそれぞれ25mm程度拡げてあります。 実距離で言えば、600m余ですから、新旧の「差分」を吸収して余りある量です。
  凡例欄には、1.世界測地系によること、 2.日本測地系に換算するには、経度を9.5秒増して、緯度を11.8秒減らすべきこと、 が記してあります。  「岡山」で、差分値が緯度:+11.61~11.64 経度:-9.56~9.59 とされていることとよく符合します!!

  ここでは、岡山ローカルなことを述べましたが、国土地理院の広報 HP には、二つの測地系の差異が詳しく・判りやすく書かれています。  ただし、この問題で気をつけなければいけないのは、当たり前のことですが、緯度や経度の約束ごととしての『数値』が変ったのであって、つまり地図で表現するためのメッシュの方を人間が動かしたので、『現実の地点が移動した』 ことと混同しないことです。  確かに、大きい地震などで 『地表が移動する』 ことは無視できません。  その成分を今回修整したことと、約束ごとを変えたことを分けて考える必要があります。
  このことは、補正値(差分)の正負を見るときにも気をつける必要があるでしょう。 国土地理院の HP の中にさえ 『北西に移動した』 というような記述や 『南東の方向』 を意識させる挿絵があることが気になります。 06/02/05 追記

プロフィール

ラスカル君

Author:ラスカル君
ブログ『極道』へようこそ!
予測を裏切る可愛い顔ですみません。
大昔、某私大の学生さんが、更に
20年前を想像して書いてくれた、
『Y教授の若い頃』

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。