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石のしるべ~里程標 3~

  上中野/根引の里程標の議論の続きです。
草稿「2」で、根引・六里が予想外に短か過ぎる印象を払拭する論考を試みたわけですが、棚上げにした第三のモチベーションについて書いておきます。 議論は、岡山-由加の往来から外周に出て、「金毘羅往来」に関わる議論に踏み込みます。
 
  「金毘羅往来」に関する近年の論考の代表は、岡山県教育委員会主導の「岡山の道」シリーズ報告書を外すことは出来ません。 事実、我々の調査活動でも大いに参考にしました。 その中、冒頭部分で、城下から下津井湊までの距離に、『八里三十一丁二十間』(1647年版)と『九里十二町』(1813年版)の両説が有ると記載されています。  明治10年代の道路事情を踏まえた視点から見るとどうなるかというのが、ここでの我々の論考です。

  まず、一番長いであろう、倉敷村経由を考えて見ます。 話は簡単で、倉敷村経由の里程標にはいずれも「下津井管轄標までの距離」が明記されていますから、適宜なものを読み取って橋本町迄の距離を足すだけです。
串田の七里を例にとれば、「下津井迄四里一町」で、結果は、十一里一町です。  是は当初の予想通り、過長です。
  次に、最短であろうものは今回議論している径路で、興除村を横切るルートです。 この径路と標準的な「金毘羅往来」ルート(妹尾から早島経由)は現在の「郷内交差点」付近で接しますから、計算は簡単です。 「根引まで六里」を根拠にして、郷内交差点まで戻ると六里マイナス5km程度で、郷内交差点は串田里程標から1km程度南なので、併せて十里一町マイナス6km、つまり八里十九丁程度になります。

  ここでの暫定的な結論は、「八里三十一丁」では今想定されている妹尾-早島経由は困難なようです。 妹尾の街中から早い時点で南を目指そうとしても、1813年の時点で興除は海の中ですから、現・県道21号相当を進むことは出来ません。 妹尾までに短絡路の可能性があったのか? 実測に問題があったのか? 今の地図上で(現地で)測り直す必要が有るかもしれません。

註1> ここでは、距離の原点として橋本町を採るか(明治以降)/千阿弥橋にするか(江戸期)の差異は無視できるとしています。(山陽道/津山往来の場合は無視できません)
註2> 下津井管轄境は、下津井湊より2km(半里)ほど東にありますが、現・吹上港付近に至ってからの東進/西進の距離差は無視できます。
註3> 

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石のしるべ~里程標2~

 金毘羅往来の上中野の「壱里」里程標(建年不明)の議論の続きです。
  金毘羅街道あるいは金毘羅道で四国へつながる国道の地位を争ったと思われる道程は、前稿で述べた「往来」の他に、倉敷(村)を経由する「道」があります。 この道沿いの里程標は、鴨方往来経由で三里、四里、五里、飛んで七里がほぼ間違いない位置/形で確認できています[いずれも明治15年建立]。
  その意味で、前稿で述べた上中野の「壱里」はこれらにつながるとは思われません。 ここでは、はるか南の瑜伽(由加)山の麓の根引地区にある、謎の・『六里(明治16年6月)』との関連を探ります。
  それには3つの理由がありますが、混乱を避けるためにひとつは棚上げにして、2つを示します;-
  先ず、橋本町と根引の間を地図上直線で測ると20km弱つまり五里ありますから、迂回余地は一里・4kmしかありません。
  次に、最近得られた上中野の「壱里」の影像から判断される形状/字体は根引の「六里」に類似していることが判りました。

     DSC09195Nebiki_320.jpg

 「元」の字体がやや異なるが、左面に刻字が無いのは、同様。  他に左右面に刻字が無い例は松山往来の加茂・「三里」。

           岡山から壱里
   

  詳しく論じます;-
  既に述べた、鴨方往来から倉敷村に回る径路は串田で既に七里を数えています。 串田から根引までの直線距離は5キロ半ほど有るので、是とつなぐと八里でも届きません。 早島・茶屋町経由の「金毘羅往来」と名付けられる径路でも、やがて串田に合流しますが、その地点で、倉敷村経由に較べて二里以上の短縮は難しいでしょう。 岡山から、かなり直結的に南進しなければ到達できません。
  明治初期~中期の道路策定の記事を調べると、『明治国道31号(M19布達)』は、早島経由の「金毘羅往来」が選ばれたと理解されます。 しかし、下って「大正国道22号(T9施行)」宇高経由で、同じ年に布告された岡山県道・下津井港線はこの国道を経由しながら、灘崎村から分かれて郷内村、味野町を経て港に達すると指定されています。 これは、明治国道31号(下津井経由四国街道)が廃された補完であると思われます。 この場合の大正国道22号は現在の県道21号とほぼ一致して、早島に至る前に妹尾で南下すると理解しておきます。
  明治16年の段階で、このルートを先取りするのは批判が有るかもしれませんが、地図上で、橋本町から、現・県道21号に沿って郷内交差点辺りまでを計測すると、19km強で、ほご五里になります。
  郷内交差点から根引付近までは、現・県道62号(その旧道=田ノ浦港を目指す)経由で4.5km程度あり、「橋本町から六里」は、数百m長いものの、誤差の範囲で到達できます。
  
  これが、明治16年・根引の「六里」と上中野「壱里」が結ばれるとする仮説の一応の結論です。
「由加往来」の北コースの標準は、早島経由の標準・「金毘羅往来」から林で分かれるとされているのに対し、妹尾から南下するコースも「プレ・県道」として公式化されていた可能性を示唆するものです。
  ここで、一つだけ留保しておくことがあります。 これまで一里の里程標位置を「上中野」と呼んできましたが、別の伝承を基に上中野二丁目の正福寺の直ぐ南を想定しています。 山陽新聞の記事の雰囲気からは、ここから西市に向かって200~300m南に位置することを否定できません。 2500分の1の「市域図」で計測すると、橋本町から正福寺南は、3700~800mの値が得られるのです。
  長話になりました。

 註> 今議論している時代の(明治16年前後)の地図を読むことが大切です。 精度が良いものでは、(県南の場合)明治30年ごろの「陸地測量部地形図」で、行政の意志を表現しているものとしては、「新撰岡山県全図(M22)」(岡山市立中央図書館蔵)が適切です。 「県全図」の表記はここの議論を支持することはあっても否定するものではないようです。 大福から興除(M22には東興除村)へは妹尾の街をかすめて行った可能性もあります。

石のしるべ~里程標~

 暫らく放置していましたが、『極道な唄』の画像庫として使用再開します。  宜しく。
  最近の、専らの興味は、石のしるべの内、明治初期の国の(新政府の)道路行政の混乱と収束の調査過程の記載にあります。 必然的に江戸期にも踏み込みます。 あ、対象地域は断らない限り岡山県下、更に絞り込めば備前備中の南部です。

  岡山から南の方に進む 「金毘羅往来」 と呼ばれる道があります、他にも下津井・讃岐金毘羅を目指す標準的な「金毘羅道」はありますが、ここで述べるのは、明治一桁からせいぜい二〇年迄の時代に『国道』の地位を争った2ルートのひとつです。 事実、写真(昭和40年新聞記事)の石柱の道は『明治国道31号(M19布達)』に相当する道と考えられています。

岡山から壱里

なお、この石柱の10~20m左に「新道」が付けられており、柱は消滅寸前です。 昭和50年代ごろには消えたようで、収納先を現在探索中です。
「距岡山元標壱里」と読めるようです。 左面に刻字はないようです。 設立年/設置者は不詳です(通常裏面に 明治○○年岡山縣 と彫られる)。 類例はどこにあるのか、「弐里」は有るのか無いのか探索中です。
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ラスカル君

Author:ラスカル君
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大昔、某私大の学生さんが、更に
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