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小さな小さな道道

  あまり細かい話を書くと、論理を捻じ曲げる意図ありと疑われかねないのを承知で、書かずに居られないのが「道フェチ」の性[さが]というものです。

  「気になっている・・・シリーズ」の続きとして、100mにも満たなくても、気になる「道」を挙げてみます。  読み進んで判られるように、「消された道」=新しい構造物で覆われてしまった(短い、短い)「負の」道についても記しています。
  一つは、商大付属高校(旧・吉備商)キャンパスの西南の隅のブロック塀に貼り付いたような長さ約80mの南北道です。  この道は北西方向から線路(津山線/山陽本線)を越えて東・南東に(表駅側に)向かう歩行者や自転車乗りに、「小さい徳」を得た気分にさせる小径です。  北方面は、国道53号に覆われてしまったのは明瞭です。  それ以外、南にも北にも延長線上には道らしいものはないのです。 けれど気になる小径です。

話を変えます;-
  適切な、判りやすい、ランドマークがないので、結論から先に書いてしまいます。  X=-12のライン(南北里境)は、南の方は、別に書いた「状況証拠」が認められるのですが、津島界隈では、旧・元・新の3本の53号線に分断されて不明瞭です。  今述べる道はその北限にあります。(坪境候補の条件を備えた東西道と T 字接続しています。)  明誠学院(旧・真備女子)の取り付け道の入り口付近の東30~40mに、長さ約30mの「入り会い道」があります。  これは、丁寧に辿ると、300mほどは南進可能ですが、「座主川」を越え切らないで、南には京山・萬成山に阻止されます。  北は、直に、半田山の地形の影響を受けています。  この小径は、そのラインが里境であるとした「状況証拠」の一つです。

  筆者の経歴について書いてしまいますが、まず、小学校の5年生の数ヶ月を岡大(津島キャンパス)の中で暮らしました。  その後、学生時代と通算して、47年間の昼間を同じキャンパスで過ごしました。  その経験・体験の中で、郷人の「入り会い道」の伝承を聞いています。
  岡大・津島キャンパスで「北団地」と呼ばれている地域には、今では、北に向かっては2つの開放口があります。  一つは「北門(開かずの門)」で、「潜り戸」が開けられて、自転車以下に原則24時間通行を保証しています。  もひとつは、「通用門」で、自動二輪車の通行は謝絶していますが、現実には阻止できてないようです。
  この道には、敗戦後4年間ほどの連合国軍による接収時期のことは不詳ですが、帝国陸軍の時代に「入り会い(権)道」であったと伝承されています。  道は、今は、通用門から200m南進できて、後はキャンパス内を自由に通過されています。  道には、1m程度の幅の用水が付いていて「座主川」に繋がっています(いました)。  筆者の記憶に間違いがなければ、この道&用水は二つの弾薬庫の人工土塁の間を横切っていましたから、明治40・41年以降の歴史を顧みるとき、「恐るべき道」です。
  道は、今では、キャンパスの中に拡散してしまっていますが、用水は、暗渠/トンネルとなって理学部本館の下に存在しています。  水位の関係で、年に1~2回しか導水されない化石の用水です。  北側には既に農地はないが、用水は埋めることは難しいのです。
  さて、勿体ぶりましたが、小さい結論です。  この通用門はX=+1 のライン上にあり、南に伸ばすと、「商大付属に貼りついた」80mの小径に繋がり得るのです。
  <昭和5年(1930年)の市販地図の記載を信じるならば、このラインは西の工兵隊敷地と東の歩兵兵器調達所の境で、公道であったように表現されています。 [06/02/08 記載]>
  [06/01/08 追記] 明治31年(1888年)の陸軍地図では、この「入り会い道」は、明確に、用水付きの主要道として記録されています。  この道は、幾つかの直角の屈曲を経て、約1.5km南下し、今の「山陽本線・平畦踏切」に到達します。  その間、「坪境」の上を離れず歩くことになりそうです。
  踏切から南は、幾らかゲージが乱れますが、今の裁判所敷地を衝き切って、900m南下したところで、Y=-12 の東西ラインに到達します。  この到達点(交差点)の西と南は、江戸期の「西国街道(山陽道)」でした。  つまり、西から来た旅人は、岡山城域を避けるために、この「点」で南下させられたのです。 ■


  別の例では、X=-6の里境ライン候補を探していたときに遭遇した例です。  運動公園の西の南北道がそれに相当することは直ぐ気づきます。  この道を南下することで、その西端に注目するのが良かろういうことも理解できます。  ところが、ラインは今の町名・伊福町三丁目辺りで自信を失うのです。  失った地点、「観音用水」の北西の岸の不思議な町並みについては、この用水が45度の方位で流れていることと関連して他で述べましょう。  その南は、文字通り紆余曲折を許せば、「寿町」辺りまで線が読めそうです。  が、「石井小学校」が行く手を遮ります。
  そこに一本の道が隠れています。  つまり、校庭を突き切れば、「昭和町」と操車場でで二度途絶えますが、大供近辺まで続きます。  話がそこで終われば何のことでもありません。  石井小学校まで足を運んでみると、・・・ 道が途切れたところには立派な門と鉄扉が残っていました(多分開かずの門ですけど)。

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