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小学校の敷地

  創立の古い小学校について、「立地状態」を調べます。  なお、手許に、小学校の完全ないリスト/情報がないので、筆者の記憶で選択します。  創立が古い新しいということに、本質的な価値基準を置いていないので、ご諒承下さい。  ここで触れる小学校の多くは100年を超えていると考えて良いはずです。

  この話の口火になったのは、「伊島小学校」でした。  更に、「石井小学校」については、校庭をX=-6の里境が横切っているらしい・・・ と記載しました。  「立地」についても幾らか説明を加えましたが、もう一度詳しく見ます。  「石井小」の北辺がY=-14 のラインに接して、南辺が10~15mの民地を挟んでY=-15 のラインに臨んでいることはそこで書きました。  東辺は里線の「20間東に」張り出し、西辺はX=-7 の坪線から「20間西に」張り出していると理解しておきます。  筆者の記憶では、1990年前後の市道拡張で、西辺を幾らか譲ったかもしれません。  面積としては、「伊島」の場合とほぼ同じで、「1坪」と2/3程度になります。

  「石井」と同じ中学校区の小学校に「三門小」があります。(ここは比較的新しく敗戦後の創立で、1952年の分離校です)  これの敷地も、ここまでに述べた2校と同じような矩形で、ただ、南北に展開しています。  北辺がY=-14 に接し、東辺/西辺をそれぞれ、X=-16/X=-17に接していると読めます。  南辺は単純ではありませんが、「幼稚園」との譲り合いがあると理解されます。  幼稚園との関係は、「伊島」でも但し書きをしました。  以降は、但し書きを省略する場合もあります。

  「御野小」に眼を転じます。  この敷地も、これまでの3校とほぼ同じサイズ・形態をしていますが、ここでは、方位が乱れています。  旭川と水路[観音寺川/西川の上流]と、神宮寺山古墳[式内・天計神社八幡宮]の影響を受けています。  更に、「陸軍M31年地図」を参照すると、その南門近くに「中井」の集落が記載されているので、これも敷地の設営に制限を加えたのでしょう。
  余談ですが、御野小の南東には、長さ120mほどの、奇妙な土手状の土の塊があります。  古い時代の旭川堤防(自然堤防か人工物かは不詳)の名残であると思われます。  

  次は、「旧・弘西小学校」です。  これは、別の記述目的で、少し触れました。  位置は、敷地の西辺をX=+6の里境に接して居ると理解されます。  敷地は、南北展開タイプですが、南北/東西ともに、7~10mほど小さ目かもしれません。  が、事実上東辺は、X=+7、南辺はY=-10 のラインに接していると言えます。  敷地がゲージに較べて小さめなのは、この辺りは岡山城の外堀域で、北隣は、「番町・武士屋敷」として江戸期に区画整理が行われたと推定されるので、それらの影響を免れていないと理解しておきます。

  「旧・南方小」(大正12年(1923年)分離)も、幾らかゲージが不正確です。
  「弘西」の場合のような理由を2~3挙げることは出来ますが、坪線との関係を概観しておきましょう。  東西に長い標準スタイルで、北辺/南辺がY=-8/Y=-9ライン相当、西辺が「西川用水」に接しているので、これはX=+2 ライン相当です。  幼稚園との譲り合いも複雑ですが、東側の公園用地になっているところを併せると、キッチリ2つの「坪」の上に立地していると言えそうです。
  厳密には、東辺が20mほど退いている(?)。  また、戦前の敷地は南北に長かったようです。  南側(法務省敷地など)と北側(元・国立病院敷地)などと総合的に考えるのが宜しい。 [06/01/21 追記]
  北 方面の6校を巡ったところで、それぞれの設置基盤を改めて、記しておきましょう。 伊島は「伊嶋村」に依っています。 「伊嶋」の起源は、おそらく、それより古い『津島(嶋)郷』・『伊福郷』を受けているのは疑いないでしょう。 三門/石井はそれぞれ旧村名によるのでしょう。  御野は『御(三)野郷』、弘西は『弘世(広瀬/弘西)郷』を受け継いでいます。  南方は、いくらか新しく・小さい行政区域の名前であろうかと思われます。
註記] 弘西小学校の敷地については、「出石郷」に属すという先達の意見もあります。  つまり、「弘世郷」と「出石郷」は里境(Y=-12)でキッチリと南北に分かれるのではなく、弘西小を含む「南北2丁X東西3丁=6坪」は出石郷に属すという見解です。  筆者には、的確な材料がありません。

  南方面へ行きます。  「旧・出石小学校」(大正3年(1914年)分離)も幼稚園とのやり取りがありますが、東西に長い標準型で、東の公園地を併せて、丁度2坪の上に立っています。  『出石郷』の名を受け継いでいます。

  「旧・深柢小学校」は、今の「仮説」に当てはめるには不規則な形です。  面積は、やはり標準的な広さのようですが、城下町の影響を避けられない地域で、かつ戦災以前の状況を確認する必要がありましょう。  なお、北辺/南辺が坪線相当であることは言えそうです。

  「旧・内山下小学校」は城の敷地にあるので議論の対象外とします。

  「鹿田小学校」の敷地については、この近辺でメッシュが崩れているので、(鹿田の荘の議論も含めて)、パスしましょう。

  その余の小学校については、坪境のメッシュが大きく乱れていたり、メッシュを議論できない地域にあります。  なお、「大野小学校」については、幾らか例外的なサイズ・形ですが、乱れたメッシュに囲まれているのかもしれません。

  以上のの検討を経て、『創立の古い小学校の敷地は、多くの場合、三方を坪境に囲まれている』という仮説は当たっているようです。
  仮説が当たっていることに得意になっているのでなく、里線/坪線を認定する援けになりそうだということが言いたいのです。
  また、「石井小」の例で見たように、仮説に当てはまる配置では、ほぼ必然的に、敷地が坪境線を遮ることになっているので、「線」を遮断した名残の「構造物(石井小の例では通用門)」が認められる可能性があります。 (「伊島小」の場合もこのケースに当たります。 06/02/02 別記)
  
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