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消える道 遺る道

  道が残され(遺され)、消されるとはどういうことでしょうか?

  これまで、「遺構」 という言葉を安易に使ってきたかもしれません。  推定線の上にある道が全て「条里道」だと断定した積りはないけれど、自分の中に、「おお、残っている、遺されている!」 という感覚があったことは事実です。
  M31年地形図を見ていると、また少し違った見方が生じます。  つまり、この地形図になくて、今ある「メッシュの上の道」はどう理解すべきかということです。  もちろん、M31図には、田圃の畦道を記録しているわけではないので、殆んどの「道」はその時点に潜在的な形で存在したと理解します。
  他方で、明らかにM31図以降に造られた道、とりわけ国道/県道/主要市道 クラスのものは、どのような経緯を経て出来たと考えれば良いでしょうか?  ここで、M31年図の重要性に気づかされます。  この年(この時期は)、まさしく、富国強兵が具体的に進行する時期です。  約10年後に、岡山に「旅団」が置かれ、いずれ「師団」に昇格するという夜明けの時期です。
  このように考えるとき、「道造り」「施設作り」はその時代背景を反映しているはずです。  それまでの「道」は、個人の、あるいは個人の小さい集団の、日常生活の利便性に基づいて、かなり自然発生的要素を受けて発達したと考えられます。  なるほど、条里の畦道自体は、往時の国家権力/地域勢力により造られたかも知れませんが、生活道としては、「日常の利便性」抜きには発達・発展することがないのです。
  明治期後半以降に、行政主導の道造りに移行したとすれば、「日常的利便性を避けて」、あるいは、「利便性を補完する意味で」造られてゆく部分があるでしょう。  そのとき、当時の設計者は、「条里の畦道」を意識したかどうかということです。

  話しは少し外へ向かって広がります。  先に、『小学校の敷地は、「2坪」の中に収められた(はめ込まれた)』という仮説を述べました。  この例は、まさしく、ここで道造りについて考察に含めようとしたことと同じです。  「御野小」の例は既存集落の影響を強く受けたと判断しましたが、その他の比較的歴史の古い小学校の多くは、「集落を僅かに避けて」、しかし、「利便性の低くない」ところを選んで立地せしめられたということです。

  近代的な意味で道を設計するときには、小学校敷地の200m程度のサイズではなく、1km~2kmのサイズでの要素の影響を受けますから、同列には論じられませんが、(多くの場合用水を伴う)畦道の存在には影響を受け易いのでしょう。  ここでも、メッシュの「ゲージ」が約100mというのは「手頃なサイズ」です。  仮に、メッシュのゲージが「1里=600m余り」なら、里線に沿う道に拘泥する人は少ないでしょう。  100m間隔の畦道が眼に見えて存するとき、その中間に線を引くのは、それなりの動機が必要です。
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